閑話 王都の元騎士①
*リュシアン視点
「……ミレスタに異変が起きている、か」
低く呟いて、リュシアン・レーヴェは手の中の封書へ、もう一度視線を落とした。
朝の光が城壁をやわらかく照らしている。
広大な庭園を渡る風は涼しく、その冷たさの奥に、張りつめた気配が混じっているように感じられた。
フィルデンリア王国は緑豊かな土地と穏やかな気候に恵まれ、聖女と聖竜の加護によって長く平穏を保ってきた。魔法や精霊、竜の存在は伝承ではなく現実として受け入れられ、王族と貴族がその均衡を管理することで、この国は成り立っている。
とりわけ王城は、聖竜の加護と権威の象徴だった。
白い石で築かれた壁、広く整えられた庭園、張り巡らされた結界と古い術式。そのどれもが、この国が積み重ねてきた歴史と力を静かに主張している。
だが今、その空気はわずかに歪んでいる。
表向きはいつも通りの朝でありながら、城に集う者たちの胸の内には、目に見えない緊張が沈殿していた。
聖竜の加護が揺らぎ始めている――そんな噂が、確かな形を持たないまま、王都の奥深くに広がりつつあるのだ。
リュシアンが腰を下ろしているのは、王城の一角に用意された客間だった。謁見の間ほどの厳かさはないが、壁には王家の紋章が刻まれ、窓には結界が施されている。自由に出入りできるようでいて、実際には城の目が常に届く場所だ。
リュシアンは退役した元聖騎士であり、現在は霊峰にある聖竜の祠の監視役を任じられている立場にある。王命を受けた身である以上、王城からの召喚を拒むことはできない。
表向きは「協議のための滞在」ということになっている。
だが実情は、帰還の時期を明示されないまま城に何日も足止めされている状態だった。
妻のマティルダもまた、宮廷薬師としての経歴を買われ、霊峰の薬草管理と後進の指導という任務を理由に、この城へ留め置かれている。
二人がここにいるのは、王都の求めに応じて、という形をとってはいるが――その裏にある疑念と警戒を、リュシアンが読み違えることはなかった。
「どうせあの老獪な者たちがあれこれと王に吹き込んだのだろう。全く面倒なことだ」
手元の封書に視線を落としたまま、リュシアンはかつてここで肩を並べていた貴族たちの厭らしい顔を思い浮かべる。それから、遠く離れた辺境の町とそこで暮らす者たちの顔が、脳裏に浮かんだ。
手に持っているのは、届いたばかりの手紙だ。折り目も正確で、急ぎながらも丁寧に書かれた文字が並んでいる。
久しぶりに目にする孫のクロードの筆跡は、随分大人びた。
リュシアンにはローレンツとクロード、二人の孫がいる。ローレンツは跡取りとして大切に厳格に育てられていたが、クロードに対する息子夫婦の接し方は自分からみても度が過ぎていた。
長男を立派に育てようとそればかりで、クロードの存在を顧みない。数度苦言を呈したが、息子には聞き入れられなかった。
そのため、幼いクロードを時折ミレスタで預かるなどしていたが、十二歳で騎士団の宿舎に入ってからは、あまり接する機会がなくなっていた。
だが、先日会った時はきちんと話をしてくれて良かったと今更思う。
クロードからの手紙に書かれていたのは、ミレスタの様子と霊峰についての記述だった。町は今のところ穏やかだとある。だが、その一文のあとに続く言葉は、決して軽いものではない。
霊峰の魔力の流れが、確実に乱れている。
結界そのものはまだ保たれているが、辺りの魔獣の動きがおかしく、以前とは違う揺らぎを感じる。そう記されていた。
雷嘴鳥や二角獣といった高位魔獣が重ねて目撃され、その度に連続して討伐に至っているとの報告は、友人のオンケルからもらったものとも一致している。
「どうして、私がいないときに……全く」
リュシアンは静かに息を吐いた。
自分がミレスタを離れた理由は、もともと単純だった。
王都にいる孫夫婦のもとに子が生まれ、洗礼の儀式を執り行うために招かれた。それだけのはずだったのだ。
霊峰にある聖竜の祠の監視役として長年辺境に留まってきた身とはいえ、王都への一時的な帰還は許可されている。マティルダの薬草の納品も兼ね、滞在は一週間ほどの予定だった。必要な手配も済ませ、町長やギルド長にも留守を頼んである。ユーナの身の安全についても、念には念を入れてきたつもりだった。
だが――王都に到着してほどなく、事態は変わった。
洗礼の式を終えたその日のうちに、王城から呼び出しがかかったのだ。
表向きは、近年の魔力循環の変化についての意見聴取。しかし、その裏に含まれている含意を、リュシアンは見誤らなかった。
王都周辺で、聖竜の加護がわずかに薄れつつある兆候が出始めている。
それと時を同じくして、辺境――とりわけ霊峰を抱えるミレスタに、特別な“落ち人”が保護されているという噂が、宮廷の一部に広がっているようだった。
辺境に力を囲い込んでいるのではないか。
聖女を隠し、その恩恵を独占しているのではないか。
そうした疑念を向けられ、リュシアンとマティルダは王都に留め置かれている。
『この娘は落ち人ではあるが、聖女としての能力はない』
はじめにそう断じたのは教会の方だ。
魔力量の測定、祝詞への反応、加護の有無――あらゆる検査を経たうえでの結論であり、その報告は王都にも正式に提出されている。
抜け殻のようなユーナに対する尊重の態度はなく、鼻で笑うような仕草をした神官も目にした。
だからこそ、リュシアンは迷わなかった。
利用価値がないと判断され、静かに切り捨てられようとしていたその娘を、霊峰のふもとにあるミレスタで保護することを選んだのだ。
守るべき聖女ではない。王国にとっての切り札でもない。ただ、突然すべてを失い、異なる世界に投げ出された、ひとりの若い娘。
聞けば彼女は、両親を事故で亡くしてすぐにこの世界に落ちたのだという。
共に暮らし始めた頃のユーナを、リュシアンはよく覚えている。
礼儀正しく、気丈に振る舞ってはいたが、その笑顔はどこか薄く、まるで壊れやすいガラスのようだった。驚くほど周囲に気を配り、甘えることを知らない。そのくせ、ふとした瞬間に、ぽっかりと空いた穴のような寂しさが覗く。
孫を見るような気持ちで接してきたつもりだった。
食事を共にし、季節を重ね、町の人々と笑い合う日々を与えれば、いつかその空白も埋まるだろうと。
ユーナには一週間で戻ると告げていたため、長引いてしまったら彼女の庇護者がいなくなってしまう。そう思い、縋るような気持ちでクロードの元を訪ねたのだ。
老人の必死さを汲んでくれたのだろう。クロードはすぐにミレスタへと向かってくれた。
「おや?」
手紙を数度読み、リュシアンはふと違和感に眉を寄せた。
文章は整っている。内容も把握した。
だが、クロードのサインの横に不自然な余白とマークがある。
彼が幼いときに、こっそり教えた暗号ごっこでやった懐かしいそのマークを目標に、リュシアンは封書に魔力を乗せた。
すると次の瞬間、紙の上から淡い光が立ち上り、文字が空中に浮かび上がった。
『ユーナが竜を拾っていました。一緒に暮らしています』
クロードが密かに仕込んだのであろうそれに、一瞬理解が追いつかない。
それから、少しの沈黙。
「……は」
間の抜けた声が漏れたかと思うと、リュシアンは目を瞬かせ、次の瞬間には腹の底から声を立てて笑っていた。
「はは、はははは! そう来たか!」
思わず膝を打つ。
聖女でもないと切り捨てられた娘が、聖竜の眠る霊峰のふもとで、竜を拾って暮らしている。
なんとも皮肉で、なんとも――この上なく、運命めいているではないか。
「……王に、報告せねばなるまいな」
リュシアンは封書を丁寧に畳み、胸元に収めた。それから、外の見張りに王との謁見を申し出たのだった。




