22 よくないにおい
家に戻るころには、外の喧騒が少しずつ遠のいて、夕暮れの空気が肌にやさしく触れていた。
扉を閉めると祭りの音は途端に遠いものになる。
「じゃあ、夕ご飯にしましょうか」
「わあ〜〜い」
フォルは先に椅子に座り、いつもよりも背筋をぴんと伸ばして待っていた。
その様子がかわいくて、頬が緩んでしまう。
優勝したフォルとクロードさんは、見事賞品をゲットすることができた。今夜はそれを使った料理だ。
「おさかな、おいしい!」
「ああ、うまい」
二人は銀鱗川魚のムニエルを口にして、同じ顔をしている。
表面は薄く粉をまとわせてから焼くことで、外側はぱりっとして中はふっくら仕上がる。特徴である銀色の皮も上手にカリカリに焼けている。
ひと口食べると、最初に広がるのはバターの甘い香りで、その後から川魚らしい澄んだ旨みがじわっと追いかけてくる。
癖は強くないのに、味が薄いわけじゃない。脂の重さではなく、身そのものの力でおいしい魚だった。
高級なのがわかる。
「こっちのたるともおいしい」
一緒に出したミレスタベリーのはちみつタルトは、町長のオンケルさんにいただいた蜂蜜とベリーで作ったものだ。
焼き色のついたタルト生地はさくさくで、噛むと香ばしい粉の匂いがほどける。
その上には、はちみつで甘く煮つめたミレスタベリーがたっぷり乗っていて、濃い赤紫が艶をまとって光っている。
「おいしい?」
「うん。すっごくおいしいの〜……」
でも、その声が少しだけゆっくりで、語尾がふわりとほどけている。
私はそこでようやく気づいた。フォルのまぶたが、さっきから何度も重そうに下りてきている。最初はいつものようにすごいスピードで食べ進めていたのに、今はその手も止まっていた。
「フォル? 眠たいなら寝に行こう?」
「……ん〜まだ食べるの〜……」
返事はあるのに、フォルの瞼は開く気配がない。舟を漕ぐように、フォークを握ったまま小さく揺れてしまっている。もう限界なのだろう。
このままでは危険だ。そう思った時、先にクロードさんの手が伸びた。
「フォル、危ないだろう」
その静かな言葉が落ちた瞬間、フォルの身体が一際大きく傾いた。危うく椅子ごと倒れそうな勢いだったのに、クロードさんの腕は滑らかに、まるで当然のようにフォルを受け止める。
クロードさんがそのままフォルを抱き上げると、フォルは一度も目を開けないまま、むしろ安心したみたいに力を抜いた。
柔らかく脱力した小さな身体が、クロードさんの腕に溶け込んでいく。
「ん〜、クロード……」
さっきまで元気いっぱいだったのが嘘みたいに、フォルは甘えた声で名前を呼んで、そのままクロードさんの腕に頬をこすり寄せた。
すっかり安心しきっている顔をしている。
「フォルったら、よっぽど楽しかったみたいですね」
くすりと笑いながら、私はフォルの口元に残ったタルトの欠片をそっと拭った。祭りの間中、ずっと楽しそうに駆け回っていたフォルの姿を思い出す。
寝息をたて始めたフォルを見つめるクロードさんの横顔には、言葉にはならない柔らかさが滲んでいるように見える。
最初は見慣れなかった抱っこ姿も、フォルが毎日クロードさんにせがむせいですっかり日常の風景になっている。
ふたりの姿を微笑ましく見守っていると、ふいにクロードさんが私の方を見た。
「ユーナは、楽しめたか?」
問いかけは短いのに、今までよりずっとやわらかく聞こえた。
「はい。すごく、楽しかったです!」
私は迷わず頷いた。
その言葉を口にしただけで、心の奥が静かに満ちていくような気がした。
確かに楽しかった。三人でお祭りに行って、はしゃぎ、笑い合った時間。こちらに来てから、初めて心の底から「楽しい」と思えたような気がする。
視線を上げると、クロードさんはフォルを抱いたまま、柔らかい目線でこちらを見ていた。
「クロードさんも、楽しかったですか?」
私は躊躇なく、心のままに口を開いた。
クロードさんはふっと視線を落とし、しばらく考え込んでいるようだった。
「……そう、だな」
ぽつりと短く呟いた声は、普段の無表情な響きとは少し違っていた。どこか慎重で、言葉の先を自分で確かめるような。
「楽しい、という感覚がこれなら、そうなのかもしれない」
クロードさんはその言葉を、まるで自分自身で確かめるようにゆっくりと言った。
その声には、戸惑いが混じっているように感じる。
私はクロードさんのこれまでのことを何も知らない。だから、ここでフォルと三人で一緒に過ごす時間が……今日という一日の断片が積み重なっていることに嬉しくなる。
お祭りという特別な空気を分かち合えて、よかった。
「フォルを寝室に連れていきましょうか。もう起きなさそう――」
そう言った時だった。
フォルが、ばっと目を開けたのだ。
まどろみを引き裂くように、とろりとした琥珀の瞳が、鋭く冴えた赤色へと変化していく。
「フォル?」
「……」
私が声をかけても反応はなく、フォルの視線は一点を凝視したままだ。
赤い瞳は暗闇を見据える獣のように鋭い。
「――やまのほうから、よくないにおいがする」
その視線の先にあるものを確かめるように、フォルはゆっくりと口を開いた。
普段の朗らかな声とはまるで違う、低く落ち着いた大人びた響きが、フォルの口から落ちた。
異質なその様子に驚いていると、赤い瞳は徐々に琥珀に戻り、フォルの身体は糸が切れた人形のようにクロードさんの腕の中におさまった。
再びすやすやと眠りへ落ちていく。抱きかかえられたままの小さな胸が上下しているのを見て、私とクロードさんは目を見合わせた。
フォルが見据えていた方角を思い返す。その場所は……
「クロードさん、フォルが今言ったことって」
「間違いなく霊峰のことだろう」
尋ねると、すぐにクロードさんはそう答えた。
よくないにおい。それが何を指すのかはっきり分からなくても、何か不穏なものであることは私にも感じられた。
フォルは勘が鋭い。クロードさんが帰ってきた時も、家に近づく少し前から私にそのことを伝えてくれたりする。霊峰で、何かが起きたということ……?
「フォルの竜としての本能が、何かを勘付いたのかもしれない」
クロードさんの言葉は静かだ。
幼くて、まだ言葉のはっきりしないフォル。可愛らしくてつい忘れてしまいそうになるけれど、やっぱりこの子は竜なんだ。
静かな実感が、胸の底からふわりと湧き上がる。
「……ユーナ」
フォルのふっくらとした寝顔を見つめていると、ふいにクロードさんに名前を呼ばれた。
顔を上げると、クロードさんが意を決したようにこちらを見ていた。
「君に確認したいことがある」
硬さと慎重さを含む声。真っ直ぐ真剣な表情に緊張感が高まる。
「は、はい」
何を言われるんだろう。
私はその視線を受け止めるように、姿勢を正した。
背筋が伸び、肩にぐっと力が入る。
「君は、自分に不思議な力があると感じたことはないか」
「不思議な力ですか……? 教会の検査では魔力量ゼロって言われましたし、何度かリュシアンさんと試しましたが魔法は使えませんでした」
そう言うと、クロードさんはほんの少しだけ眉を寄せた。
「その検査を信じていないわけではない。だが、前回の討伐で俺の身体に起きたことは、説明がつかないんだ」
クロードさんは言い切ってから、呼吸を整えるみたいに一度だけ息を吐いた。
「俺は森狼との戦闘で、左腕に裂傷を負った。深くはないが、確かに血が出た」
「えっ、そうだったんですか!?」
私は目を見開いた。確か、怪我はないと言っていなかっただろうか。
それなのに、私は変な態度で困らせてしまった。
「大事には至っていない。それに、その傷はもう癒えてしまったんだ」
クロードさんは淡々と続ける。
「昼食で君の弁当を食べたあと、妙に身体が軽くなった。呼吸が乱れにくく、魔力の巡りも滑らかだった」
「……それって」
「二角獣との交戦でも同じだ。普段なら疲労が残るはずの戦いだったのに、終わったあとも動けた」
そう言って、クロードさんは袖をまくる。
そこには、肌の色がそのまま残っているだけで、切れた形跡が見当たらなかった。
「そして帰り道で気づいたんだ。痕もなく傷がふさがっていることに」
「でも……私には、力は」
小さく漏れた声に、クロードさんが首を横に振る。
「俺にはわかる。君の料理には、おそらく加護に近い力が宿っている」
「でも……そんなこと、リュシアンさんも、町の人たちも、誰も言っていませんでした」
口に出した瞬間、自分の声が思っていたよりも頼りなく聞こえて、私は指先を握り込んだ。
問いかけるように呟くと、クロードさんは少しだけ視線を落とし、言葉を探すみたいに短く息を吐いた。
「余計な注目を浴びれば、君が狙われる。落ち人であることも含めて、君の立場は軽くない」
静かな声なのに、背筋が伸びた。
私は頷こうとして、うまくできなかった。分かってしまうからだ。噂は早い。善意だって、時に刃になる。
「祖父は何か知っている可能性がある」
「リュシアンさんが……?」
「ミレスタに俺を寄越した理由も、単に留守の間に君を守れというだけではないのかもしれない」
言い終えたあと、クロードさんの表情は変わらなかった。
私は無意識に窓のほうを見る。
夜の霊峰は黒く沈み、何も語らないまま、ただそこにあった。




