閑話 討伐依頼②
それから、自分の左手をじっと見つめる。先ほどの戦闘で気づいたことがあった。
風魔法の威力が強く、それなのに負荷が少ない。朝からずっと、その感覚がある。
指先の動きに合わせて風が素直に応じる。いつもなら、戦闘の合間でこういう感覚は出ない。魔力の流れが乱れ、思うように扱えなくなるのだが。
――霊峰の影響か?
あるいは、山の魔力が濃くなっているせいで、周囲の流れが変わっているのか。
考えかけたところで、バルガスさんが隣に腰を下ろした。すでに何かの肉を片手に齧っている。
「クロードもなんか食っとけ。午後はこんどこそ二角獣だからな!」
「そうします」
俺は荷の中から、布で包まれた弁当を取り出した。
ユーナが持たせてくれたものだ。布を解くと、紙に包まれた食べ物がふたつ並んでいた。
ひとつは形が整っているが、もうひとつは少し歪だ。
『てつだう!』と朝から騒いでいた、フォルの顔が頭に浮かぶ。
こちらがフォルが作ったハンバーガーなのだろう。ふ、と息が抜けた。
まずは整った方を手に取り、口に運んだ。
パンは柔らかいのに、噛むときちんと弾力がある。肉の香ばしさと脂の甘みが広がり、野菜の歯触りが後を追う。塩気がちょうどいい。余計な味がないのに、物足りなくもない。
自然と、もうひと口を重ねた。
「お! うまそうだなあオイ!」
「はい、うまいです」
正直な気持ちを答える。そういえば今まで、食事を楽しむという感覚が自分になかったことに気がついた。殊更食事を楽しみにしているフォルと一緒に生活しているからかわからないが、食卓はいつも温かい。
「いいねえ。しっかり食え、若者!」
ばしりと背中を叩かれる。
軽口のように聞こえて、視線はすでに周囲を測っている。休息の空気が長く続かないことを、誰もが理解していた。冒険者たちが立ち上がり、荷を背負い直し、武具の留め具を確かめる音が重なると、バルガスさんも笑みを引っ込めて背を向けた。
「うますぎるからって気ぃ抜くなよ」
「分かっています」
食事を終え、再出発して霊峰へ向かう道は午後になるほど影が濃くなる。
谷筋の湿り気が増し、草と土の匂いに混じって、鉄のような気配がわずかに漂ってきた。山が息を潜めているような静けさの中、隊列の足音だけが淡々と進み、やがて先行していた冒険者が手を上げて合図を送る。
「二角獣の痕跡だ!」
地面が抉れている。二本の角が擦ったような深い溝が走り、周囲の木の幹にも硬いものがぶつかった跡が残っていた。森狼のものとは違う。間隔も重みも、はっきりと別だった。
「ようやく本命か……」
バルガスさんが目を細め、低く言う。
俺も息を整え、風の流れを拾う。音はまだない。
それでも草の揺れ方がひとつだけ不自然で、そこへ意識を寄せた瞬間、地面が震え、低い唸り声が腹の底に響いた。
岩陰から現れた躯体は、想像していた以上に大きい。頭部から生えた二本の角は長く分厚く、肩の盛り上がりは壁のようで、蹄が踏み込むたび土が跳ねた。
「よし、作戦通り散れ!」
誰かの声に隊列が割れ、前衛が躍り出た。
俺も剣を抜いて踏み込むと、風が応じるようにまとわりつき、足が勝手に前へ出る。剣の軌道が迷わない。
目の前の巨体が妙に遅く見え、角が振り下ろされた瞬間に横へ流れた風が俺の身体を押して紙一重で避けさせた。
続けて斬る。刃は硬い皮膚の抵抗を確かに拾ったが、止まらない。もう一歩踏み込み、首筋へ深く入れると、二角獣は大きくのけぞって地面に膝をつき、そのまま重い音を立てて倒れた。
静寂が戻る。残ったのは荒い息と土の匂い、そして武器を下ろしきれない者たちの戸惑いだけだった。
「……終わった、のか?」
「早すぎねぇか?」
ざわめきの中で、バルガスさんが俺を見て豪快に笑い、勢いのまま肩を叩いてくる。
「お前すげえな! クロード!」
「いえ、隊の連携を守らずに動いてしまい――」
「そんな堅ぇこと言うなって!」
笑いが起き、張り詰めていた空気がほどけていくのを感じたところで、バルガスさんが目を輝かせたまま言い切った。
「お前、冒険者にならねぇか? すぐS級にしてやるぞ!」
「お断りします」
「即答か!」
また笑いが起きる。場が軽くなるほど、逆に俺の意識は別の場所へ沈んでいった。左腕に視線を落とし、確かめるように袖口を指先で押さえる。
――おかしい。
午前中の戦闘で確かに森狼の爪が左腕を掠めて、血が出たはずだ。だが。
「……傷が、ないだと」
袖をまくったそこには、あの時の裂傷がなかった。
赤く腫れた跡すらなく、肌は何事もなかったように整っている。けれど袖の内側には乾きかけた血が残り、繊維に染み込んで濃く沈んでいた。
怪我をしたのは確かにこの場所だ。間違いない。それなのに、傷だけが消えている。
「クロード、どうかしたか? 負傷したんだったら得意な奴に回復魔法をかけさせるが?」
バルガスさんの声が近くなる。俺は袖を下ろし、視線だけを上げた。
「いえ、問題ありません」
「おう、そうか! なら帰るぞー!」
「暗くなる前に帰れますね!」
号令が谷に響き、討伐隊は帰路へ向けて動き出す。俺も隊列に加わりながら歩いたが、思考だけが遅れてついてきた。
疲労感が少なく、傷が消えている。戦闘では自分の実力以上の動きが出来た。
なにかこれまでとは違う特別なこと……そう考えて思い当たったものは、昼に食べたユーナの弁当だった。
彼女の料理はただの料理ではないのではないか。
ユーナは異世界からの落ち人だ。それに竜の子があんなにも懐いている。
落ち人はその類稀な能力から過去には異世界から召喚された記録もあり、世界の均衡を繕う特別な存在として扱われる。
かつての聖竜と共にあったのは、落ち人の聖女だ。
だが、落ち人全てに能力があるわけではない。それでもここで生きていくしかないため、中にはこの世界に馴染めず人知れず消えていく者もいたという。
「……彼女には特別な力はないのではなかったのか」
そうこぼしてしまった。
祖父からそう聞かされていた。教会で測定し、ユーナは魔法を使うことはできないという結果が出た、と。だからこそ彼女は王都に召集されることなく、このミレスタで祖父たちと平和に過ごしていたのだ。
「……」
俺は口を結んだまま、隊列の後ろを歩いた。山は相変わらず何も語らない。それでも胸の内は落ち着かず、静かなざわめきだけが消えずに残っていた。
二角獣の素材を引き渡し、必要な報告を済ませて家を目指す。
必要な調査はこれからもまだ続けるそうだが、ギルドの面々は深刻そうな顔をしていた。雷嘴鳥に森狼、それから二角獣。これらの魔獣がこの頻度で目撃されたとなると、偶然で片付けるには無理がある。
不安が形を持って、ギルドの中を漂っている。
口には出さないが、皆同じことを考えているのだろう。次は何が出る。どこまで降りてくる。誰が巻き込まれる。そういう問いが、答えのないまま胸の内に沈んでいく。
家の前に着くころには、空の色が少しだけ鈍くなっていた。
木の扉に手を伸ばし、軽くノックをしようとしたそのとき、勢いよく扉が開いた。
「おかえりなさい!」
弾む声と、眩しいほどの笑顔。ユーナが玄関先まで出てきて、顔を上げたまま俺を迎える。その様子があまりにまっすぐで、こちらの警戒心より先に胸の奥がわずかに緩むのを感じた。
だが、次の瞬間には別の感覚が背筋を走り、俺は反射的に視線を左右へ滑らせた。
「ユーナ。確認せずに開けるのは不用心だ」
口にした声は、意図していないのに少し硬かった。ユーナから表情が消え、動きを止めた。彼女の瞳が揺れて、けれど次の瞬間には堪えきれなくなったように、目尻から雫がこぼれた。
「っ、すみません。私……!」
慌てたようにユーナは頬を拭った。指先で押さえても涙は止まらず、袖でごしごしと擦ってしまうせいで、目元が赤くなっていく。
ユーナは必死に笑顔を作ろうとして、何度も瞬きをしている。
けれど涙の筋は途切れず、頬を伝って顎先に落ちる。
「すまない。怖がらせるつもりはなかった」
答えが出ないまま、俺は低く息を吐き、無理に声を落とした。
俺は視線を逸らすこともできず、ただ立ち尽くした。手袋の上から指先が強張っていく。剣を握る時より、よほど厄介だ。
「ユーナ、どうしてないてるの?」
フォルがやって来て、不思議そうにユーナを見上げた。
「なんでもないの。フォル、さっきは教えてくれてありがとうね」
ユーナはフォルの声に応えるように笑顔をつくった。目の周りがすっかり赤くなってしまっている。
「クロードさんも、本当にごめんなさい。次から気をつけますね」
「いや……俺だったから問題ないが」
「ボクが、クロードがかえってきたってユーナにいったんだよ〜!」
そう言ってフォルが、えっへん、と小さな胸を張る。褒められるのを待っているみたいに顎まで上げていて、尻尾でもあればぶんぶん振っていそうな顔だった。
「そうだったのか。すまない、ユーナ」
「いえ、大事なことですもんね」
ユーナの目元は赤いままだったが、涙はもう止まっていた。
そのことに俺は遅れて息を吐く。よかった、と安堵した瞬間、別の感情がじわりと追いかけてきた。もっと別の言い方があっただろうに。
「俺の留守中、大事はなかっただろうか?」
「はい、今日はおばさま方がたくさん食堂に来てくださって、とても賑やかだったんです」
きっと、ギルド関係者のご婦人方が来たのだろう。
ユーナは落ち着いた表情に戻っている。
玄関先でそんなやり取りをしていると、家の中からはふわりと温かな匂いが流れてきた。ふとユーナの向こう側を見ると、食卓の上にたくさんの料理が並んでいる。
ユーナは視線に気がついたのか、慌てて口を開く。
「その……クロードさんを待っている間に作りすぎました。落ち着かなくて……気づいたら、こんなに増えていて」
「……」
俺は返す言葉を探したまま、もう一度だけテーブルを見る。
量もそうだが、どれも手間がかかっているように思う。その横で、フォルが目をきらきらさせながら、食卓の端に手を伸ばしかけていた。
「ねえユーナ、クロードがきたからもうたべていいよね? おなかぺこぺこ〜」
「先に食べていないのか?」
「うん、ボクもクロードを待ってたの。はやくたべよ〜」
フォルの待ちきれなさそうな声を聞きながら、俺は目の前の光景をもう一度確かめる。出迎えの笑顔に、たくさんの料理。そのどれもが温かい。
「着替えたらすぐに戻る」
「はい。スープを温めておきますね」
「クロード、はやくね!」
返事をして廊下へ向かいながら、俺は一度だけ肩越しに食卓を見た。
湯気の立つ皿がまた並び、そこではユーナとフォルが楽しそうに準備をしている。
あまりにも眩しい。なぜか落ち着かない気持ちになりながら、部屋へ急いだ。
二角獣の討伐が終わっても、やはり町の空気は軽くならなかった。
本来、霊峰の奥から出てくるはずのない高位魔獣が、山を降りてきたからだ。
「霊峰で何か起きているに違いない」
「聖竜様が怒っているのではないかしら……」
町の人々は口々に不安をこぼし、噂がますます広がっていく。ギルドも対応に追われているようで、警戒のための見回りが増えた。
俺は事態を伝えるため、王都にいる祖父に手紙を書いた。




