17 ギルド長の土下座
「ユーナ、皿はすべて洗い終わった」
俺は濡れた手を布巾で拭きながら声をかけた。
鏡でも見れば、自分が妙な格好をしていることくらい分かる。白いエプロンに袖まくり。聖騎士団の制服ではないし、剣を握る手で皿を扱うのも慣れない。
「ありがとうございます、クロードさん。助かります」
カウンターの向こうで、ユーナがふっと笑った。
店を閉めたあとの食堂は静かだ。日中のざわめきが嘘みたいに引いて、木の床の軋みや、水が流れる音だけが残っている。
少し前まで王都で聖騎士団にいた俺がこうして厨房に立っているのは、入れ替わりで王都に滞在することになる祖父から頼まれたからだ。
『落ち人であるユーナを守るように』と。
霊峰に近いこのミレスタは、ただの辺境ではない。
霊峰の気配を間近に受ける土地では、獣も魔獣も桁が違う。大きく、しぶとく、そして強い。山の麓に近い森に入れば、子どもほどの角を持つ鹿が平然と歩き、肉屋に並ぶ紅猪は、王都で聞くものより一回りも二回りも大きい。
そんな相手と向き合いながら生きてきたからだろう。この町の人間は、皆幼い頃から、鍛え方が違う。
討伐に出る者だけじゃない。木こりも、薬師も、運び屋も、ただの町民と呼ぶには頼もしい者ばかりで、危険と隣り合わせの暮らしが、この土地の空気を作っている。
当然、ギルドも特別だ。
ミレスタのギルドは、辺境の支部というより、霊峰を監視し抑えるための拠点に近い。出入りする冒険者の質も高い。王都の若い連中が「一度はここで名を上げたい」と口にするのを、俺も何度か聞いたことがある。
だから、この町に入るには条件がある。
一定以上の実力を示すライセンスを持つ者しか、門をくぐれない。霊峰の周辺に不用意な者を近づければ、命がいくつあっても足りないからだ。本人が死ぬだけならまだしも、魔獣を引き寄せ、町を危険にさらす。
この仕組みがあるからこそ、ミレスタは成り立っている。
――なのに。
以前、ユーナが巻き込まれた件のように、あの手の粗暴な連中が入り込んだ。
薄汚れた口ぶりと、力を誇示するだけの振る舞い。あれが正規の冒険者だとは、とても思えなかった。
俺は視線を落とし、洗い終えた皿を風魔法で乾かす。白い陶器はきれいで、欠けもない。
この町に派遣されたことには、意味がある。
そう思うと、胸の奥ではなく、腹の底が落ち着いた。
そんなことを考えていると、表の扉が控えめに叩かれた。
閉店後だ。客が戻ってくる時間ではない。
「ユーナ、コンコン!」
「誰だろう……?」
「俺が出る」
ユーナの背中に緊張が走るのを感じた俺は、皿を置いて前に出た。
扉を開けると、外灯の下に立っていたのは――見知らぬ男ではなかった。
「よう、クロ坊!」
がはは、と腹の底から響く声が店先に転がる。
この男はミレスタ冒険者ギルド長、バルガス・レグナス。
年は五十を越えているだろう。大柄な体に、分厚い肩。身なりは整っているが飾りはない。元は名の知れたS級冒険者であり、その名は王国中の冒険者が知っているだろう。
笑っているはずなのに、目の奥は鋭い。戦場をくぐった者だけが持つ落ち着きがあった。
「その呼び名はもうやめてください、バルガスさん」
「ああ、悪ぃな。つい昔の気分になっちまって。クロ坊……じゃなくてクロードも大人だもんな。あ、クロード様の方がいいか?」
「いえ、クロードでお願いします。今日はどうしたんですか?」
持ち込んだ雷嘴鳥のことだろうか。あれを無傷で持ち込んだ際も実はギルドが騒然となり、どうやって狩ったかを口々に聞かれて大変だったことを思い出す。
あれは、フォルがやったことだ。俺は何もしていない。
あの鳥がこちらに狙いを定めて下降しようと向きを変える直前、俺は背後に背筋が泡立つような大きな力を感じた。そしてその瞬間、雷嘴鳥が落ちてきたのだ。
もしや、フォルのことに何か勘付いたのかと思って足に力を入れると、バルガスさんの視線は俺の背後へ目をやった。
そこに立っていたユーナの姿を認めた瞬間、空気が変わる。
「……ユーナちゃん!」
バルガスさんは一歩近づき、次の瞬間、膝から落ちた。
どん、と音がした。
膝をついた勢いで土埃が舞うほどの重い動きだった。
「申し訳ねぇぇぇぇぇっ!!」
腹の底から絞り出す声。
そして、地面に額を叩きつけるような土下座だった。
「先日の冒険者の件、あんたを危ねぇ目に遭わせた! ギルド長の俺が……この俺がいながらだ!」
拳が震えている。怒りではなく、悔しさのせいだ。
「リュシアンにも頼まれてたんだぞ……! 守ってくれって、あの人はちゃんと俺に言ってくれてたのに……!」
バルガスさんは頭を上げない。
額が地面に沈みそうな勢いで、もう一度ぶつけるように深く下げた。
「不甲斐ねぇ……! 情けねぇ……! ギルドの顔に泥を塗った!」
ユーナが固まったまま、小さく息を吸うのが聞こえた。
俺も言葉を差し込もうとしたが、その前に、別の声が場違いに響く。
「ねー、クロード」
のんびりした声。
フォルが俺の袖を引っ張っていた。
「これ、なあに?」
フォルは無邪気な顔のまま、土下座し続けるバルガスを指さした。
その瞳の奥が、ほんの一瞬だけちり、と乾いた音を立てた気がした。
俺は反射的にフォルの頭に手を置く。柔らかな髪を押さえるようにして、熱が上がらないように。
「悪い人ではない、フォル。この前のことで、ユーナに謝りに来てくれたみたいだ」
「そうなんだあ」
フォルはころりと表情を明るくして、次の瞬間にはもう別のことを考えている顔になった。
「クロードと、どっちがつよいんだろうっておもってた〜」
ふわふわと笑っているのに、視線は真っ直ぐだった。
相手の力を測っている。無意識に。背筋に、嫌な冷たさが走る。
その間も、バルガスさんは地面に額を押しつけたまま、動こうとしない。
ユーナが勢いよく飛び出してきた。
「バルガスさん、顔を上げてください!」
ユーナは慌てた顔でバルガスのそばに駆け寄り、その肩に手を伸ばす。
「私は、大丈夫でしたから! フォルとクロードさんが守ってくれたので」
「……面目ねぇ」
バルガスさんはようやく顔を上げた。額がすっかり赤くなってしまっている。
それでも立ち上がるときの動きは重く、悔しさがまだ体に残っているのが分かった。
「ユーナちゃんが無事でよかった。ほんとに、それだけは……」
バルガスさんはそう言い切ってから、短く息を吐いた。
ユーナはまだ戸口に立ったまま、落ち着かない様子で指先を握りしめている。
「あの人たちは、どうなったんですか?」
問いかけた声は震えていなかったが、硬さがあった。そうだ、あの後あの連中をギルドに引き渡したのは俺だ。
バルガスさんの目が鋭くなる。
「処遇は決まった。だが……締め上げるのに少し日数がかかっちまった」
自分の不手際を噛みしめるように、バルガスさんは顎を擦った。
「本来、この町に入れるのは、正式な冒険者ライセンスを持つ連中だけだ。しかもミレスタは霊峰に近い。危険が常にあるからなあ」
言葉は荒いが、説明自体は丁寧だった。
「だからギルドは、入町の資格を厳しく絞ってる。外の町みてぇに、誰でもふらっと稼ぎに来られる土地じゃねぇんだ」
俺も知っている。ここに出入りする連中の身元は、どこも徹底している。
それでも、穴はあった。
「あの冒険者どもは、他人のライセンスを盗んでた」
バルガスさんは吐き捨てるように言った。
「盗んだやつを加工して、顔も名前も変えて、偽造した上で潜り込んでやがった。胸糞悪い話だ」
「えっ」
ユーナが息を呑む。
「捕まえた後、すぐ吐かせたかったが、ミレスタのギルドは正規の手順を踏む必要がある。勝手に拷問まがいの真似もできねぇ」
バルガスさんは拳を握り、すぐにほどいた。
「だから時間がかかった。まあ最後はマティルダさんの薬を使ったけどな!」
その言い方には、苦笑いと、心底の敬意が混じっていた。
祖母の調薬する自白剤は効用が良すぎて、よっぽどじゃないと使えない。服薬してしまうと、その後一月は効果が持続してしまうらしい。
だからきっと、その常習犯であろう冒険者たちは余罪もベラベラと話し尽くしてしまっているはずだ。
「ライセンスは永久剥奪だ。ミレスタのギルドだけじゃなく、本部に回した。二度と冒険者を名乗れねぇように、な」
「そうなんですね」
ユーナの強張っていた肩が、ようやく下りる。
土下座のせいで乱れた服を払いながら、バルガスさんはようやく腹の底の息を吐き切った。
その顔はまだ赤いままだが、目だけはすでに次の仕事へ切り替わっている。
「……改めて、すまん。ユーナちゃん」
「はい、気にかけてくださってありがとうございます」
ユーナは小さく首を振り、微笑んだ。さっきのノックの反応からすると、突然の来訪者に対する怯えはまだありそうだ。もう少し早くミレスタに到着していればと考えてしまう。
「クロード、今日はお前にも話があってな」
バルガスさんがそう言って、俺の方へ向き直った。
「はい。俺に、何でしょうか」
短く返すと、バルガスさんは笑い皺を深くしてから、すぐに真面目な顔に戻る。
「霊峰の周りでな……高位の魔獣が増えてるようなんだ」
バルガスさんは、そっと声を落とした。




