10 三人暮らし
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前の晩の出来事がまるで夢だったかのように、空は静かで、鳥たちは元気にさえずっている。
私は目覚めてすぐに、キッチンの準備にとりかかる。フォルはまだぐっすり寝ているみたいで、布団の中でぴくりとも動いていなかった。
お腹の辺りを大きく上下させながらスウスウと寝息を立てる姿は、本当にただのかわいい子供のようで……けれど、昨日のあの炎を思い出すと、やっぱりどこか現実味がない。
(やっぱり、竜なんだよねえ。これからどうしていくのがいいんだろう)
もうすぐリュシアンさんたちが帰ってくると思っていたけれど、そうではないみたいだし。
そんな思案にふけりながら、ふと一階の奥にある部屋の方に目をやると、扉の前に立っている影があった。
「おはようございます。クロードさん」
私は声をかける。
黒髪に淡い金の瞳の青年は、ほんのわずかにまばたきをしてから、低く口を開いた。
「……おはよう」
深く礼をしながらそう言う彼の声は低く落ち着いていて、けれど少しだけ、慣れていないような照れが混じっている。
整った顔立ちはまるで彫刻のようで、すっと通った鼻筋に、引き締まった口元。端正という言葉がぴったりだった。そして、とっても無表情だ。
リュシアンさんもマティルダさんも、いつもニコニコしている人たちだったから、少しだけ不思議な感じがする。昨夜は二人の寝室に泊まってもらったから、余計に。
「昨夜はありがとうございました。ゆっくり休めましたか?」
「ああ。よく眠れた。急なことに対応してもらってすまない」
クロードさんは短く答える。その淡々とした口調も表情も変わらない。
「クロードさんは、今日からしばらくここに滞在されるのですよね」
「ああ。昨夜も話したが、祖父母が戻るまではここで用心棒をする」
昨晩家に戻ってきたクロードさんに渡されたのは、リュシアンさんの筆跡で書かれた手紙だった。
『ユーナへ。もし手紙が届く前にクロードが着いたら、この言伝を証拠に彼を迎えてやってください。優しくて強い子だよ。何かあればすぐ王都に知らせてくださいね。――リュシアンより』
そんな、やわらかな言葉が添えられていたのだ。
「リュシアンさんたち……しばらく王都から戻れないんですよね」
私が昨晩のことを確認するように尋ねると、クロードさんは小さく頷いた。
「ああ。旧知の友人に頼まれて、王城の仕事が急に増えたらしい。いつ戻れるか分からないそうだ。長期間君をひとりにするのは心配だからと、俺が遣わされた。……急いで来てみて良かった」
その言葉にも、表情にはほとんど動きがない。だけど、誠実さが伝わってくる気がした。本当に、クロードさんの到着が遅れたらどうなっていたか。
フォルが火をおこして大変なことになっていたかも……!
「祖父母は、君を孫のようなものだと言っていた。同じ孫仲間として、しばらくよろしく頼む」
クロードさんは大真面目な顔をしている。
(孫仲間、って……ふふっ、そんなの聞いたことないなあ)
「は、はい、よろしくお願いします……っ、あはは!」
その言葉が面白くて、我慢していたのに吹き出してしまう。
そうこうしているうちに、階段のほうからぽてぽてと足音がしてきた。
「ふわぁ……ユーナ、おなかすいた〜……」
大きなあくびをしながら、フォルが寝ぼけまなこで現れる。またくしゃくしゃの銀髪に、半分閉じたままの琥珀の瞳。まだ夢の中にいるような表情で、こちらに歩いてきて――
「あっ、よるの人! クロードだ〜!」
ぱっと目を見開いたかと思うと、フォルは駆け寄ってそのままクロードさんの腰にぎゅっとしがみついた。
「わっ……」
クロードさんは、突然の抱きつきに面食らって固まり、明らかにどうしたらいいのか分からないといった様子でオロオロと戸惑っている。
「……お、おはよう……?」
棒読みのような返事に、フォルは嬉しそうににっこりと笑った。
(ああ……この困り顔、なんだかかわいいかも)
無表情で無骨な青年の、予想外に人間味のある一面が垣間見えて、私は危うく噴き出しそうになった。
「はいはい、フォル。朝からぎゅーはびっくりしちゃうから、いったん離れようね」
私はフォルの背中に手を回して、べりっと優しく引きはがす。フォルは少し名残惜しそうにしながらも、素直に私の腕におさまった。
「さ、朝ご飯作ろうか。今日もいっぱい食べて、元気に過ごそうね」
「うん!」
ぱっと明るくなるフォルの笑顔に、クロードさんも安心したように見えた。
「はい、どうぞ。朝ごはんはフレンチトーストだよ」
焼きあがったばかりのフレンチトーストを皿に並べて、私は二人の前に運ぶ。卵は鶏小屋から拝借して、ミルクは濃厚な紅斑牛のもの。
ふわりと広がる甘い香りに、フォルが「わあっ!」と目を輝かせる。
「これ、たまごのにおい! すき、すきー!」
椅子にぴょこんと腰かけたフォルは、待ちきれないとばかりにフォークを手にした。その様子を見て、私はくすっと笑いながらクロードさんの前にも皿を置く。
「クロードさんも、どうぞ。たっぷり焼いていますのでお好きなだけ。卵やミルクは大丈夫でしょうか?」
「ああ問題ない。では、いただく」
クロードさんは真面目な顔のまま、律儀に手を合わせてから一口食べた。そして、ほんの一瞬だけ、表情が揺れる。
「うまい、な」
「ユーナ、おいしい!」
ふたりの顔がとろける。いや、クロードさんに関しては表情の変化はあまりわからないけれど、眉毛がちょっと下がっているからきっととろけている。うん。
「ふふ、よかった。私も大好きなの」
「このとろとろのところがすっごくおいしいのだ! あまくて、ほわほわで……おクチがしあわせ!」
「……っ」
フォルの無邪気な食レポに、クロードさんの口元がほんの少しだけ緩んだような気がする。私が見ると、サッとまた無表情に戻ってしまったので残念だ。
私も嬉しくなってフレンチトーストを頬張る。
(……お母さんが、よく土曜日の朝に作ってくれた……あの味がする)
家族のように三人で食卓を囲んで、部屋には朝日が差し込んでいて。
甘くて少ししょっぱくて、優しい味わいのフレンチトーストを楽しく食べる。
それが遠く懐かしく、私は泣きそうになった。
おだやかな朝食を終え、湯気の立つハーブティーを口にしようとしたそのとき。
向かいに座るクロードさんが、ふと視線をフォルに向けた。
「すまない。ずっと気になっていたんだが……この子は誰だろうか」
穏やかだけれど、曇りのない声。問いかけというより、心に引っかかっていた疑問をようやく口にした、というような響きだった。
「ぶっ……!」
飲みかけていたハーブティーが喉に引っかかり、私は盛大にむせた。
「ユーナ、だいじょぶ?」
咳き込みながら、私は涙目でフォルとクロードを交互に見やった。
優しい手つきで背中をさすってくれるフォルの隣で、クロードさんは変わらず真面目な顔のまま、私の様子を見守っている。
「……失礼。タイミングを考えるべきだった」
決して詰問するような態度ではない。むしろ、遅ればせながら礼を尽くして確認している――そんな印象だった。
(え、えっと……そうだよね。ちゃんと、説明しないとだよね)
クロードさんは、リュシアンさんたちに言われてここに来たのだ。
いざ祖父母の家に来てみたら、託された異世界人と共に見知らぬ幼子も一緒にいるとなれば戸惑うのも当たり前だよね。
昨夜は何も言われなかったから済んだと思っていたけれど、どうやら気を遣ってくれていたらしい。それはそうだ。
(……うーん。フォルが本当は竜だってこと、クロードさんには伝えてもいいのかなあ)
乱暴な冒険者の件もあってそう悩んでいると、クロードさんはコホリと咳払いをした。
「その子からはものすごい魔力を感じる。昨晩も火の魔法をたやすく使っていただろう?」
「そ、そういえば見ていましたね……」
フォルの火魔法をバッチリ見られている。
この子がただの幼子でないことはすでにクロードさんも感じ取っているだろう。
フォルをちらりと見ると、くんくんと鼻を動かした。
「クロード、だいじょうぶ。いいにおい」
なぜか満足げにそんなことを言って、ニッと笑うフォルに、私は少しだけ肩の力が抜けた気がした。
……そうだよね。隠していても、きっとフォルのことはすぐにわかってしまう。だったら、最初からちゃんと話しておくべきだ。
(リュシアンさんたちが信頼しているお孫さんなのだから、私も――)
そう思い直し、私は深呼吸をしてから、クロードさんのほうを向いた。
フォルが駆け寄ってきて、私の膝の上に乗る。
「改めまして……私はユーナといいます。そしてこの子の名前はフォル。私が森で倒れているところを見つけました」
クロードさんの淡い金の瞳が、真っすぐにこちらを見つめてくる。やはり、ただの好奇心ではない。彼はすでに察しているのだ。
「実はフォルは、もともとは竜の姿をしていました。お腹が空いているようだったので、食堂でごはんをごちそうして、そのまま一緒にいます」
自分の言葉を噛み締めるように、ひとつひとつ丁寧に説明する。
「最初は、傷だらけで、髪も灰色にくすんでいました。でも、食事をしたり、休んだりしているうちに……少しずつ、元気になってくれて」
私はフォルの銀色の髪にそっと触れた。あのときの灰色はもう、どこにも残っていない。
「どうしてかは私もわからないのですが、フォルは今、人の姿になって、こうして……私のそばにいてくれています」
言い終えた後、クロードさんはしばし無言のまま、真剣な表情でフォルを見つめていた。
厳しい反応をされるのではないかと緊張していると――
「そうか。竜か……」
淡々とした声で、でもどこか、理解の色をにじませてそう言ってくれたように思う。
私が胸をなで下ろした直後、クロードさんはふと、静かな声で呟いた。
「竜というのは、本来、森や山の奥深くに棲む、古の魔獣の中でも神格化された特別な存在だ」
「特別な、存在」
その言葉に、私は思わず姿勢を正す。
クロードさんは目を伏せ、少し考えるようにしながら、丁寧に続けてくれる。
「その鱗は剣すら通さず、魔法をも弾く。ひとたび怒れば、一国を焼き払うだけの力を持つと言われている。けれど同時に……賢く、誇り高く、人の心に触れた竜は、忠誠を誓うこともあるそうだ」
「……忠誠、ですか?」
「ああ。古い文献に、王に従った竜の逸話がある。だが、それは数百年に一度あるかないか。滅多に人前に現れない、神話のような存在だ」
そんな存在が――今、私の膝の上に座っている……?
私の前では、最初のあのとき以外は本当に幼子と変わらないのに。
「ユーナのごはん、おいしいの〜!」
フォルは足をぶらぶらとさせながら、満足そうに笑っていた。膝の上でぬくもりを分け合いながら、その小さな身体に大きな力が宿っているのを不思議と感じる。
私は銀の髪を撫でた。
最初の灰色が嘘のように、やわらかく輝いている。
ふと、クロードさんが考えるように目を細める。
「この子がここに留まっているのは、君のそばが心地いいからだろう」
「あの、クロードさん。このこと……フォルが竜だってことは、みんなには内緒にしていただけませんか?」
私は真剣なまなざしでクロードさんを見上げた。竜の存在が知られれば、面倒なことになる。どんなに人となりを知っていても、不安に駆られる人は出てくるだろう。
フォルが怖がられるようなことは、絶対に避けたい。
それに、昨日の冒険者のような人たちにも関わりたくない。
クロードさんは、しばらく黙ったままフォルを見つめていた。膝の上で足をぶらぶらさせながら、おかわりしたパンをもぐもぐしている小さな子。
「……わかった。君とこの竜を引き離すことはできないだろう。それに……世界の安寧のためにも、それが一番いい」
その言葉に、私はまた胸をなで下ろす。理解してもらえたことが、こんなにも嬉しいだなんて。
それにしても世界だなんて、表現が大きすぎるような気がするけれど。
「ありがとうございます、クロードさん……!」
「礼には及ばない。それでは、俺自身のことについても改めて伝えておく」
クロードさんはふと姿勢を正し、凛とした声で続けた。
「俺はクロード・レーヴェ。リュシアンとマティルダの孫だ。王都では、聖騎士団に所属している」
「えっ」
「二人が戻るまで、この家の用心棒を任された。よろしく頼む」
言葉は端的だったけれど、その声にはまっすぐな誠実さがあった。
(聖騎士団……!? それって、けっこうすごい人なのでは……?)
そんな人が臨時とはいえ王都から離れて、ここで過ごしていいのだろうか。
私は内心あわあわしながらも、慌ててぺこりと頭を下げた。
「こ、こちらこそ、よろしくお願いいたします!」
「クロード、よろしく〜」
こうして、竜の子と聖騎士団出身の青年と異世界から来た私の、ちょっと不思議な共同生活が、始まることになった。




