(三)現場入り
◆ 五 現場入りの署名
現場入りの署名も、書けているのか分からなかった。
見えてはいる。
読めてもいる。
たぶん、読めている。
けれど、それが自分の名前なのか分からない。
■■■■■は、念のため口にもしてみる。
「■■■■■」
声は出た。
だが、やはり分からない。
その場は、災害対応の混乱の中だった。
豪雨。
停電。
地下道の浸水。
救助要請。
怒号。
作業員。
行政担当。
退魔士。
現場責任者。
誰も、署名欄を長く見ていられない。
次の判断が必要だった。
次の確認が必要だった。
次の避難誘導が必要だった。
署名の違和感は見逃される。
■■■■■は、不謹慎なことに、ちょうどいいと思ってしまった。
見逃された方が、現場へ入れる。
現場へ入れなければ、間に合わない。
もう、その判断自体が少しおかしくなっていた。
本来なら、止まるべきだった。
名前が分からない。
署名に手応えがない。
自分で自分を確認できない。
それは、現場入りを止める理由になる。
だが、当時の手順には、それを止める仕組みがなかった。
名痩せという言葉も、本人確認遅延という基準も、帰還確認という作戦終了条件もない。
名前を呼ぶ者はいた。
けれど、名前が保たれているかを見張る者はいなかった。
■■■■■は、旧市営地下道へ入った。
◆ 六 災害
旧市営地下道では、豪雨と停電により人々が閉じ込められていた。
行政、退魔士、現場責任者は救助を試みる。
だが、状況は悪化する。
地下道の一部で火災が起きた。
煙が流れる。
水が溜まる。
霊障が濃くなる。
避難経路は減っていく。
連絡は途切れていく。
照明は落ち、声だけが増えていく。
防火扉を閉めなければ、火と煙はさらに広がる。
防火扉を閉めれば、取り残される人がいる。
閉めるな。
閉めろ。
開けろ。
開けるな。
助けて。
助ける。
戻れ。
戻るな。
声は重なり、誰のものか分からなくなる。
行政担当は判断を求められた。
現場責任者は時間を見た。
退魔士たちは霊障濃度を見た。
誰も、悪意でそれを決めたわけではない。
誰かを見捨てたい者はいなかった。
だが、閉めなければ、もっと多くが死ぬ。
閉めれば、助からない者がいる。
決断は、悪意ではなかった。
それでも、取り残された人がいた。
取り残すことを決めざるを得なかった人がいた。
防火扉が閉まる音は、地下道の中で何度も反響した。
その声と足跡と手が、地下道に残った。
救いを求める足跡。
助けようと伸びる手。
意味になる前に壊れた声。
そして、責任の行き場だけが、誰にも渡せないまま残った。
※第0話「防火扉を閉めた日」は全五回です。
続きます。
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