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八重結び  作者: KEI
第0話 防火扉を閉めた日

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(一)名前が薄くなる

◆ 一 名前が薄くなる


八十年前、旧市営地下道の災害に対応した八重士がいた。


その男の名前は、記録に残っていない。


いや、残っていないと言い切るには、少し違う。


呼ばれていた。

名乗っていた。

署名もしていた。

家にも、その名前で呼ぶ者がいた。


同僚も、後輩も、妻も、子供も、その名前を知っていた。


■■■■■は、自分の名前を呼ばれている。


その声に、返事もしている。


「■■■■■」


呼ばれた。


だから、返した。


「何だ」


返事は自然だった。

返事をした自分にも、不自然さはなかった。


けれど、少し遅れて、妙な空白が来る。


今、自分は何と呼ばれたのか。


分からない。


呼ばれたことは分かる。

自分の名前だったことも分かる。

自分が返事をしたことも分かる。


だが、その名前が何だったのかだけが、指の間から水のように抜け落ちていく。


■■■■■は、眉を寄せた。


おかしい。


今、自分の名前を呼ばれた。


自分でも、名前を言った。


でも、それが何だったのか分からない。


疑問には思える。


ただ、不思議と違和感にはつながらなかった。


疲れているのだろう。

豪雨対応が続いている。

地下道の浸水報告もある。

停電も起きている。

行政からの連絡も錯綜している。


名前を一瞬取り落とすくらい、あり得る。


そう思った。


そして、そう思ったことも、すぐに些細なことになっていく。


名前が薄くなる。


薄くなっていることに気づく力も、少しずつ薄くなる。


◆ 二 家族の中の欠落


家でも、小さな欠落は起きていた。


夕食の支度をしていた妻が、ふと夫を見る。


「あ……」


箸を並べる手が止まる。


「あれ? おかしいわね」


夫が顔を上げる。


「どうした」


妻は、数秒だけ夫を見ていた。


何かを忘れた。


それは分かる。


けれど、何を忘れたのかが分からない。


夫の顔は分かる。

夫であることも分かる。

声も、座り方も、茶碗の持ち方も、よく知っている。


なのに、何かが抜けている。


妻は小さく笑った。


「ちょっと疲れているのかしら?」


夫は深く追及しなかった。


「早く寝ろ」


「あなたに言われたくありません」


そんなやり取りは、いつも通りだった。


いつも通りだったから、欠落は目立たなかった。


しばらくして、息子が学校から帰ってきた。


玄関で靴を脱ぐなり、楽しそうに言う。


「今日、学校でお父さんの名前を聞かれたの!」


妻は台所から顔を出す。


「あら、何て答えたの?」


息子は胸を張った。


「すっごい強い退魔士って答えた!」


妻は笑った。


「名前を聞かれたんじゃないの?」


息子は首を傾げる。


「名前?」


「名前は……答えたと思うけど」


少し考える。


それから、あっけらかんと言った。


「忘れちゃった!」


妻は笑う。


「もう。人に聞かれたことには、ちゃんと答えなさい」


「答えたってば」


「本当に?」


「たぶん!」


子供の言い間違い。


それで済む話だった。


少なくとも、その時はそう見えた。


ただ、名前だけが少しずつ遠くなる。


夫の顔は分かる。

父の強さは分かる。

家族であることも分かる。


けれど、名前だけが薄くなる。


忘れているのではない。


最初から、そこに書かれていなかったようになっていく。



※第0話「防火扉を閉めた日」は全五回です。

続きます。


作者個人サイトでは、人物相関図・各話アイキャッチ・用語メモなどの補足資料を公開しています。

※ネタバレ範囲にご注意ください。


https://www.simulationroom999.com/blog/yaemusubi_top/

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