(二) 得意は逃げ道
◆ 3. 基礎は道
初歩作業のあと、黒瀬は細い糸を取り出した。
糸の先には、小さな鈴がついている。
天井から吊るすと、空調のわずかな流れを拾って、かすかに揺れ続けた。
「固定だ」
透は糸を見て、すぐに顔をしかめる。
「いきなり固定ですか」
「そうだ」
「苦手なんですけど」
「だからだ」
「普通、得意なところから始めません?」
「現場前の確認では、得意と苦手を先に見る」
「理由は?」
「慣例だ」
「慣例」
透が美緒を見ると、美緒は端末を操作していた。
「元請け側の基礎確認様式にも、得意系統、苦手系統、対立系統の確認欄があります」
「そんな欄あるんですか」
「あります」
「理由は?」
「様式には書いてありません」
透は糸を見上げる。
「この業界、理由なしで残ってるもの多くないですか」
黒瀬は否定しなかった。
「多い」
「いいんですか、それ」
「だから面倒なんだ」
黒瀬は糸の揺れを見ていた。
「ただ、理由が分からないからって、すぐ削るな」
「削ると?」
「そういうのは、だいたい削ったあとで意味が出る」
透は一瞬、何かを言おうとした。
だが、黒瀬の横顔があまりにも平坦だったので、やめた。
訓練に戻る。
固定。
一秒だけ止める。
透は糸へ意識を伸ばした。
揺れを止める。
動きを留める。
止まった。
だが、強すぎた。
糸は一瞬だけ不自然に固まり、次の瞬間、弾かれたように揺れた。
鈴が、ちり、と鳴る。
黒瀬が言う。
「押さえすぎだ」
「止めろって言われると、押さえたくなるんですよ」
「固定は押さえつけることじゃない」
黒瀬は糸を指差す。
「次の工程へ渡せる形で留めることだ」
透はもう一度やる。
今度は弱すぎて、糸は止まらない。
「これ、地味に難しくないですか」
「基礎だからな」
「基礎って、簡単って意味じゃないんですね」
「簡単なら修行にならん」
次に、黒瀬は皿の上に水を一滴落とした。
水滴は傾けられた板の上を、ゆっくり流れていく。
「偏向」
透は少しだけ肩の力を抜いた。
水滴の流れを、横へ逃がす。
押し返さない。
止めない。
ただ、抵抗の少ない方向へ道を変える。
水滴は不自然に跳ねることなく、ゆるやかに軌道を変えた。
黒瀬が頷く。
「偏向はいい」
「ありがとうございます」
「だが、いいから危ない」
透は眉を寄せる。
「褒めてから落とす流れ、流行ってるんですか」
「固定が崩れた時、お前は偏向へ逃げる」
黒瀬は、皿の上で止まった水滴を見る。
「苦手と得意を見るのは、そこを見るためでもある」
「得意と苦手の間」
「そうだ」
黒瀬は少し間を置いて、言葉を足した。
「術式は、対象への作用だ。曲げる、止める、薄める、集める。そういう作用を通して、対象のあり方に触る」
透は水滴から目を離さない。
「あり方」
「残滓でも怨霊でも、現場にあるものは、ただ“いる”だけじゃない。どのくらい濃く、どこに、どう残っているかがある」
黒瀬は糸を軽く弾いた。
鈴が小さく鳴る。
「術式は、その残り方――存在の確かさみたいなものに干渉する。だから固定が甘いまま曲げれば、残り方ごとずれる。希薄を雑に入れれば、薄くなった分だけ広がることもある」
透は、二〇三号室で広がりかけた手の気配を思い出した。
「あの時、俺が偏向に逃げたから、手だけじゃなくて動作全体がにじんだ」
「そうだ」
黒瀬は頷く。
「術式は出力だけじゃない。対象の存在を、次にどう扱える形にするかだ」
それは、難しい説明ではなかった。
だが、聞き流せるほど軽くもなかった。
透は、もう一度糸を見る。
止める。
曲げる。
薄める。
集める。
どれも、ただの技ではない。
対象がそこに残る確かさへ触る行為なのだと、少しだけ分かった。
◆ 4. 篠宮伊織
午後、元請け側から若手術者が来た。
篠宮伊織。
年は透と近い。
姿勢がまっすぐで、道具の扱いが丁寧だった。
腰には札入れ。
手元には結界縄用の小型具と、確認用の筆記具。
動きに迷いが少ない。
それが、透には少し鼻についた。
篠宮は訓練場に入ると、まず黒瀬に一礼し、それから透を見た。
「三枝透さんですね」
「はい」
「二〇三号室案件の報告書を読みました」
「どうも」
「固定不十分の状態で偏向へ差し替えた」
透の口元がわずかに固まる。
「はい」
「危険です」
「自分でも書いてます」
「書けることと、次に止まれることは別です」
透は少しむっとした。
「元請けの人って、報告書だけ見て現場分かった気になるんですね」
篠宮は表情を変えない。
「報告書に残せない現場判断は、次の手順にはできません」
「現場には、報告書に書けないこともあります」
「なら、書けるようにしてください」
透は言葉に詰まった。
黒瀬が二人の間に入る。
「そこまでだ」
篠宮は黒瀬に向き直り、改めて頭を下げた。
「篠宮伊織です。元請け側の若手術者基礎確認として来ました」
透は聞き慣れない言葉に反応する。
「基礎確認?」
美緒が端末を見る。
「二〇三号室案件の報告を受けて、元請け側から若手術者の基礎確認が入りました」
「俺、試験されるんですか」
「そうだ」
黒瀬が平然と言う。
「聞いてない」
美緒は目を上げない。
「言うと逃げるので」
「信用がない」
黒瀬は首を振る。
「あるから受けさせる」
篠宮は透を見る。
「固定が不安定な術者が、偏向を得意としている」
「なんか嫌な予感がする」
「それ自体は珍しくありません」
「珍しくないんですか」
「はい」
篠宮は一拍置く。
「問題は、固定が落ちた時に偏向で補おうとすることです」
「完全に俺の話ですね」
「はい」
「言い切るなあ」
黒瀬は、篠宮の言い方を止めない。
透はそれがまた少し悔しかった。
◆ 5. 篠宮の固定
訓練場で、篠宮も基礎を見せることになった。
まずは固定。
天井から吊られた糸が、空調の流れでわずかに揺れている。
篠宮はそれを見上げた。
何かを強く押さえる気配はない。
術式を叩き込むような力みもない。
一秒。
糸が止まった。
透の時のように押し潰す感じはなかった。
糸は止まっている。
けれど、張り詰めすぎていない。
次の瞬間、何事もなかったように自然な揺れへ戻った。
透は思わず黙る。
篠宮が言う。
「固定は、対象を殺すことではありません」
その言葉は、黒瀬が言ったこととほとんど同じだった。
「次の工程へ渡せる形で留めることです」
透は唇を少し尖らせる。
「次の工程へ渡す」
「止めたあとに何もできない固定は、現場では邪魔になります」
「けっこう刺してきますね」
「三枝さんの固定の話です」
「分かってます」
次に、篠宮は偏向を試した。
水滴の流れをずらす。
できている。
だが、透ほど自然ではない。
流れは曲がるが、少し硬い。
水滴が抵抗しているように見える。
透はほんの少しだけ、口元を緩めた。
篠宮がすぐに言う。
「今、顔に出ました」
「何がですか」
「偏向なら自分の方が上だと思った顔です」
「出てました?」
黒瀬が答える。
「出てた」
美緒も答える。
「出ていました」
「味方がいない」
篠宮は淡々と言う。
「偏向は三枝さんの方が良いです」
「褒めました?」
「事実です」
「元請けの褒め方って冷たいな」
「ただし、得意なものほど逃げ道になります」
「落とすの早い」
「落としていません」
篠宮は透を見る。
「危険性を指摘しています」
「だいたい同じです」
黒瀬は二人を見て、少しだけ面倒そうに息を吐いた。
「相性悪いな」
美緒が端末を閉じる。
「相性が良いとも言えます」
透と篠宮が同時に言った。
「良くありません」
美緒は表情を変えない。
「声は合いましたね」
透は篠宮と目を合わせ、すぐに逸らした。
※第2話「初歩は門、基礎は道」は全六回です。
続きます。
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