(八)名前の遅れ
◆ 九 名前の遅れ
透は再対応に入った。
観測。
階段側の手すりに、薄く滲んだ反応がある。
人影だったものが、輪郭を失って流れだけになっている。
「見えました」
透は見えたものだけを言葉にする。
「階段側。手すりの裏」
黒瀬が言う。
「偏向」
「はい」
偏向。
人から外す。
壁側へ逃がす。
そのまま吸い札へ流す。
ここまでは通る。
白鳥が端末を見る。
「対象反応、低下」
篠宮が確認する。
「流れは術具側へ向いています」
黒瀬が低く言う。
「希薄」
透は頷く。
「はい」
希薄。
対象反応を落とす。
本来なら、ここで終わる。
式守上も、処理完了に近い。
実際、反応は落ちる。
白鳥が読み上げる。
「対象反応、基準値以下」
式守が判定を出す。
「希薄成功。処理完了判定、可能」
透は息を吐きかけた。
その瞬間、足元の感覚が抜ける。
対象は薄い。
輪郭がない。
流れだけが残っている。
そこへ希薄が入りすぎた。
薄めたものがどこへ行ったのか、分からない。
対象から離れたはずのものが、ほんの一部だけ、透の側へ触れた。
痛みはない。
ただ、自分の輪郭だけが、一瞬薄くなる。
透は言葉を失った。
「……」
黒瀬が呼ぶ。
「三……」
名前が出ない。
黒瀬自身が、一瞬詰まる。
「……おい、若いの!」
透は反射で返事をした。
「はい!」
返事をしてから、遅れて違和感を覚える。
若いの。
それは自分の名前ではない。
なのに、返事をした。
美緒が呼ぶ。
「透くん」
透は一拍遅れて振り向いた。
「……はい」
美緒は、その一拍を見逃さない。
白鳥もログを見る。
> 本人呼称反応遅延。
> 分類未定。
土御門が低く言う。
「今のを、疲労で流すなよ」
白鳥は即座に答える。
「記録します」
黒瀬は、透を見る。
「三枝」
今度は名前が出た。
透は返事をする。
「はい」
「自分の名前を言え」
透は、一瞬だけ間を置いた。
「……三枝、透」
少し遅い。
美緒が記録する。
「本人確認、遅延あり」
端末に入力する指が、いつもより少し速い。
「継続確認」
透は小さく言う。
「すみません」
美緒は即座に返す。
「謝らなくていいです」
それから、まっすぐ透を見る。
「返事をしてください」
透は息を整える。
「はい」
ここではまだ、誰も名をつけられない。
ただ、名前への反応がおかしい。
それだけが残った。
※第5話「式守は禁忌を知らない」は全十回です。
続きます。
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