(三)報告書
◆ 六 固定の代わりにはならない
部屋の空気が軽くなった。
完全に晴れたわけではない。けれど、さっきまで床に溜まっていた重さは消えている。
透は畳に座り込んだまま、喉を押さえていた。
黒瀬がしゃがみ込み、透の首元を見る。
「軽度だな」
「すみません」
「謝罪は報告書に書け」
「はい」
「嘘だ。書くな。美緒が怒る」
透は少し笑いかけたが、喉が痛くて咳き込んだ。
黒瀬は水を渡し、しばらく待ってから尋ねる。
「何が悪かった」
「固定しきれませんでした」
「それだけか」
「本来なら、そのまま希薄に入るはずでした」
「入ったか」
「……入れませんでした」
「なぜ」
透は言葉を探した。
「固定が甘いまま希薄に入ると、手だけじゃなくて動作ごと散ると思いました」
「そこまではいい」
黒瀬は答えを急がせなかった。
怒鳴らない。先に正解を言わない。
ただ、透が自分で見つけるのを待っている。
「だから、偏向に差し替えようとしました」
「そこだ」
黒瀬は短く言った。
「固定が甘いから、得意な偏向へ逃げた。そのせいで固定がさらに落ちた」
「はい」
「偏向は悪くない。だが、固定の代わりにはならん」
黒瀬の声は厳しかったが、責めるための厳しさではなかった。
「逃がしていいものと、留めるべきものを見ずに流すな」
透は黙って頷いた。
「今回は、手だけじゃなかった。手がしていた動作。その動作が残った理由。そこまで触りかけた」
「……だから広がった」
「そうだ」
黒瀬はベッドを見る。
「かわいそうだと思うのは勝手だ。だが、かわいそうだから流す、は処理じゃない」
透も同じようにベッドを見た。
さっきまで手があった場所には、もう何もない。
ただ、布団だけがきれいに整っている。
「八重士なら、こういうのも八つ繋げて処理するんですよね」
透が呟くと、黒瀬は少しだけ顔をしかめた。
「八重士は、八つ繋げるだけのやつじゃない」
「違うんですか」
「定義上はそうだ」
「どっちですか」
「現場の意味が違う」
黒瀬は立ち上がり、使い終えた札を回収した。
「八つ繋げるだけなら、事故例にもいる。八重士は、八つ繋げても戻ってこられるやつだ」
「戻ってこられる」
「そうだ」
黒瀬は透を見下ろす。
「できた、じゃない。終わらせた、でも足りない。戻ってきた、までが現場だ」
透は、痛む首元に触れた。
八重士。
八接続を安定して扱える、最高位の退魔士。
遠い。
遠すぎる。
だからこそ、目標になる。
◆ 七 伝えなかったこと
帰社後、片桐美緒は報告用モニターを見ながら言った。
「不動産屋は説明義務を逃げていますね」
透は首に湿布を貼られていた。
貼ったのは美緒である。貼り方が妙に慣れていた。
「違法ですか」
「明確に違法とは言い切れません」
「じゃあ、責められない?」
「責められるかどうかと、次の事故を防げるかは別です」
黒瀬がデスクにもたれかかり、腕を組む。
「扱いにくいやつだな」
「はい」
美緒は頷いた。
「事故物件ではない、という説明と、何も起きていない、という説明は違います」
「隠してたってことですか」
「隠した、とまでは書けません」
美緒は言葉を切り分けるように言った。
「でも、伝えなかった、とは書けます」
「その違い、大きいんですか」
「大きいです。書けるかどうかが変わります」
透は少し黙った。
法律のことは分からない。契約のことも、まだよく分からない。
けれど、知らされずにあの部屋で眠ることの怖さだけは、首元の痛みと一緒に分かった。
「佐伯さんには、現状説明と再発時の連絡先」
美緒は指で項目を確認していく。
「管理会社には、霊障調査結果と次回募集時の説明文案。不動産屋には、前入居者情報の扱いについて照会。元請けには、簡易対処と対処後観察の報告」
「そこまでやるんですか」
「やらないと、また誰かが知らないまま寝ます」
黒瀬が頷いた。
「美緒の言う通りだ」
「でも、不動産屋が本当に違法じゃないなら」
「違法ではないから、何も残さなくていい、とはなりません」
美緒は透をまっすぐ見た。
「報告書は、責めるためだけのものではありません。次に同じことが起きないようにするためのものです」
透は、自分の首元の湿布に触れた。
知らないまま寝る。
その言葉が、やけに重かった。
◆ 八 所見ではありません
透は報告書を書いた。
発生状況。
依頼者聞き取り。
現場観測。
推定分類。
使用術具。
処理手順。
失敗しかけた工程。
黒瀬による補助。
術後確認。
経過観察予定。
書くことはいくらでもあった。むしろ、書くことしかなかった。
透が一度目の報告書を提出すると、美緒はすぐ赤字を入れた。
「“かわいそうだった”は所見ではありません」
「でも、かわいそうでした」
「それは感想です」
「感想も大事では」
「大事ですが、報告書の所見欄には不要です」
黒瀬が横から口を挟む。
「報告書は観測の結果で、かわいそうは同調の結果だな」
「退魔士以外には伝わらなそう」
「なので、報告書には別の言葉で書きます」
美緒は赤ペンを持ち直した。
「たとえば?」
「悪意を持つ対象ではなく、生活動作の反復残滓と推定」
「急に報告書になった」
「報告書なので」
黒瀬は少し笑った。
「かわいそうだと思うな、とは言ってない。ただ、それを処理の根拠にするな」
「根拠にするなら、観測」
「そうだ」
黒瀬は頷く。
「同調は、似てるが別物だ」
「別物」
「場合によっては逆だ」
「逆」
「今はそこまででいい」
「説明を途中で止められた」
「報告書が進まないので」
美緒がぴしゃりと言った。
透は三回書き直した。
最終的に、所見欄はこうなった。
> 対象は悪意を持つものではなく、生活動作の反復残滓と推定。
> ただし人体への干渉は明確であり、継続観測が必要。
> 固定不十分の状態で偏向へ差し替えた場合、残滓拡散の危険あり。
> 接続数過多に注意。
美緒は目を通し、最後の二行で手を止めた。
「感想文ではなくなりましたね」
「褒めてます?」
「比較的」
透はそれを褒め言葉として受け取ることにした。
美緒は最後の一文をもう一度見る。
「ここはいいと思います」
接続数過多に注意。
今日の失敗が、紙に残っている。
恥ずかしい。
けれど、不思議と安心もあった。
失敗したことが、消えずに残る。
次に同じ場所で、誰かが首を絞められないように。
自分が、同じ欲張り方をしないように。
◆ 九 三日後の電話
三日後、佐伯菜月から電話があった。
「昨夜は、首を絞められませんでした」
電話口の声は、まだ少し疲れていた。
けれど、最初に会った時よりは軽い。
黒瀬は通話をスピーカーにして、透と美緒にも聞こえるようにした。
「ただ」
「はい」
「夢を見ました」
佐伯は少し迷ってから続けた。
「知らない部屋で、誰かに布団をかけてもらう夢です。顔は見えませんでした。でも、怖くはなかったです」
透は息を止めた。
黒瀬は静かに頷く。
「分かりました。七日後に予定通り再確認します。何かあれば、すぐ連絡してください」
通話が切れる。
事務所に短い沈黙が落ちた。
「まだ残ってますか」
透が尋ねる。
「少しな」
「処理失敗ですか」
「違う」
黒瀬は即答した。
「ゼロにすればいいわけじゃないものもある」
美緒が記録画面に入力しながら言う。
「要経過観察ですね」
「そういうことだ」
退魔業界の勝利は、たいてい派手ではない。
完全消滅。大勝利。悪霊退散。
そんな言葉は、報告書にはあまり出てこない。
出てくるのは、低下、安定、再発なし、経過観察。
現実的で、地味で、責任の残る言葉ばかりだ。
透は窓の外を見た。
雨は降っていない。
けれど、湿った空気の匂いはまだ残っている。
◆ 十 ひとつずつ、正しく繋ぐ
「黒瀬さん」
「あ?」
「次は、三接続で止めます」
黒瀬は透を見た。
そして、首を横に振った。
「止めるんじゃない」
短い言葉だった。
「終わらせるんだ」
「はい」
美緒が横から言う。
「終わらせた後は、報告書です」
「はい」
透は苦笑した。
首の痛みは、もうほとんどない。
けれど、あの見えない手の感触は残っている。
怖さとしてではなく、教訓として。
怨霊は悪ではない。
でも、有害なら処理する。
術式は力ではない。
接続だ。
そして接続は、増やせばいいものではない。
透は自分の手を見る。
まだ八つは持てない。
でも、いつか。
いや、まずは次の現場で。
ひとつずつ、正しく繋ぐ。
それが、八重士へ続く道の最初なのだと思った。
――第1話 首を絞める部屋 了
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