(二)生活残滓型
◆ 四 生活残滓
黒瀬の端末に、美緒から追加情報が入った。
前入居者は高齢男性。部屋で死亡。発見まで数日。妻を亡くしていた。
近隣の聞き取りでは、妻の体調が悪かった頃、夜中に何度も布団をかけ直していたらしい。
透はベッドの横を見る。
あの手は、佐伯の首を絞めているのではない。
誰かが寒くないように、布団を直している。
ただ、佐伯菜月は前入居者の妻ではない。
体格も違う。寝る位置も違う。布団の厚みも違う。
肩へかけるはずの手が、首元に重なる。
善意でも、悪意でもない。
ただ残った動作が、今ここで生きている人間を傷つけている。
「悪意じゃないんですね」
透が言うと、黒瀬は短く答えた。
「ないな」
「じゃあ」
「害はある」
黒瀬の声は静かだった。
「悪意がないことと、放っておけることは別だ」
佐伯は玄関で、静かにその言葉を聞いていた。
恐怖だけではない顔をしている。
自分を苦しめていたものが、誰かを気遣う動作だった。そう聞かされて、どんな顔をすればいいのか分からないのだろう。
けれど、それで苦しくなかったことにはならない。
「本来なら、二次調査に回す」
黒瀬が言った。
「でも」
透が促すと、黒瀬は佐伯の首元に視線を向けた。
「首元に痕が出ている。今夜も起きる可能性が高い。だから、本格処理じゃなく、簡易対処だ」
「今夜、首を絞められないところまで下げる」
「そうだ」
黒瀬ははっきり言った。
「終わらせるんじゃない。危険を下げる」
佐伯が、ためらいがちに尋ねる。
「完全には、終わらないんですか」
「確認するまで、終わったとは言いません」
黒瀬は誤魔化さなかった。
「ただ、今夜の危険は下げます」
佐伯は迷ったあと、ゆっくり頷いた。
「お願いします」
◆ 五 簡易対処
佐伯を玄関の外へ下がらせ、扉は開けたままにした。
部屋には、透と黒瀬だけが残る。
透は鞄から札を三枚出した。
観測。
固定。
希薄。
動きを読む。動く範囲を留める。濃さを落とす。
方針は合っている。
問題は、現場で通るかどうかだ。
透はベッドの横に残った手を見た。
布団を引く。
肩へかける。
戻る。
観測は入っている。手の動きは読めている。
次に、固定。
動きの範囲だけを留める。
透は札を床近くに滑らせ、手の動きが通る空間へ細い線を引くように意識を置いた。
手が、止まりかける。
だが、止まりきらない。
布団を引く。
肩へかける。
戻る。
その動作が、わずかにずれながら続いている。
透の首筋に、冷たい指の感触が走った。
「っ」
「息を乱すな」
黒瀬の声が飛ぶ。
透は奥歯を噛みしめ、呼吸を戻した。
固定が甘い。
手は止まっていない。むしろ、留めようとした分だけ反発している。
本来なら、このまま希薄に入る。
固定で範囲を絞ったまま、濃さを落とす。首元へ重なる干渉を薄める。
それで終わるはずだった。
だが、透は希薄へ行けなかった。
固定が足りない。
このまま希薄を入れたら、手だけでなく動作全体に触れる。
散る。
そう思った瞬間、透の意識が得意な方へ逃げた。
偏向。
横へ流せばいい。
首元からずらせばいい。
固定しきれなくても、当たらなければいい。
「差し替えるな」
黒瀬の声に、透の指が止まった。
「固定が落ちる」
「でも、このままだと佐伯さんに」
「まだ佐伯さんには行ってない」
黒瀬は低く言った。
「お前が焦ってるだけだ」
透は歯を食いしばる。
手は動いている。固定は甘い。希薄には行けない。
だったら、流すしかない。
透は偏向を入れた。
首元へ向かう圧が、横へずれる。
一瞬、楽になる。
だが、その瞬間、固定の線が落ちた。
留めていた範囲がにじむ。
手の動作が、ベッドの横からはみ出す。
布団。
枕。
カーテン。
壁。
畳。
部屋のあちこちに、手の形になりかけた薄い残滓が広がっていく。
透は慌てて希薄へ入ろうとした。
だが、もう遅い。
薄める対象が広がりすぎている。
どこを薄めればいいのか分からない。
手なのか。
動作なのか。
部屋なのか。
前入居者の習慣なのか。
にっちもさっちもいかない。
黒瀬が動いた。
「引け」
「まだ」
「引け、三枝」
その声には、現場の重みがあった。
透は接続を切る。
途端に、膝から力が抜けた。
黒瀬が前に出る。
「観測だけ残せ」
「はい」
透は震える指で観測だけを維持した。
黒瀬は固定を入れた。
透が留めきれなかった範囲を、まず止める。
それから、散りかけた圧を吸い札へ逃がす。
最後に、濃すぎた手の輪郭だけを希薄でほどく。
消し飛ばすのではない。
ほどく。
部屋の空気が、少しずつほどけていく。
黒瀬は最後に、ベッドの布団を直した。
術ではない。
人間の手で。
ゆっくりと、枕元から肩の位置へ。
誰も寝ていない布団を、きれいにかけた。
「もういい」
黒瀬が静かに言った。
「終わった」
その言葉に、残っていた手が一度だけ止まった。
まるで、自分の仕事が済んだと知ったように。
輪郭がほどける。
手は、消えた。
※第1話「首を絞める部屋」は全三回です。
続きます。
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