(一)案件名が長い
◆ 一 案件名が長い
黒瀬退魔処理に、元請け経由で調査依頼が入った。
案件名は、やたらと長かった。
> 二〇三号室、夜間圧迫感および首部発赤の調査、ならびに必要と判断される場合の簡易対処および対処後観察
端末の画面を見下ろした三枝透は、少しだけ眉を寄せた。
「なんか、件名で全部説明してそうですね」
向かいのデスクで書類をそろえていた片桐美緒が、顔も上げずに答える。
「そうでもありません」
「これでまだ説明してないんですか」
「件名は、あくまで案件の入口です」
美緒は端末を操作し、依頼書の詳細を事務所の共有モニターに映した。
黒瀬退魔処理の事務所は狭い。デスクが三つ。棚には札、封筒、契約書、結界具の予備。壁際には、古い複合機。奥の隅には、現場用の長靴とヘルメットがまとめて置かれている。
零細業者という言葉を、退魔の二文字で薄く塗ったような場所だった。
「今回うちに許可されているのは、専有部内の調査、軽微な霊障反応の記録、入居者本人への聞き取り。それから、人体への干渉が確認された場合の簡易対処までです」
「けっこうできるじゃないですか」
「できません」
「え」
即答だった。
透が目を瞬かせると、美緒は淡々と続けた。
「まず、本格処理に切り替える場合は、元請けの承認が必要です。共用部に霊障が伸びていた場合も、建物全体の案件へ切り替えです。その場合、管理会社と元請けの両方に確認が必要になります」
「……はい」
「躯体に影響する固定、壁や床への杭打ち、配管経由の処理、隣室への立ち入り、共用廊下の封鎖は、うちの判断ではできません」
「めちゃくちゃできないじゃないですか」
「下請けなので」
ソファに腰かけていた黒瀬玄一が、新聞から顔を上げた。
「言い方」
「事実です」
美緒は一歩も引かない。
黒瀬は何か言いかけたが、結局やめた。反論できる材料がなかったのだろう。
美緒はさらに、依頼書の別項目を開く。
「術具使用費は、一件につき十万円以下であれば三件まで請求可能。ただし、吸い札、固定札、希薄札は通常消耗品扱いです。結界杭、封じ札、遮断幕、簡易結界縄は、使用理由を記録してください」
「十万円を超える場合は?」
「事前承認です。ただし、人身被害の拡大が予見される場合に限り、事後承認でも通る可能性はあります」
「可能性」
「可能性です」
美緒はきっぱり言った。
「通るとは言っていません」
「怖い」
「怖がってください」
透は端末の画面を、改めて上から下まで見直した。
調査可能範囲。処理可能範囲。術具使用上限。事後承認条件。対処後観察日程。再発時の一次連絡先。入居者説明の文言。管理会社への報告区分。元請け承認が必要な作業一覧。
依頼人の名前よりも、禁止事項の方が多い。
「依頼人の情報の方が少なくないですか」
「少ないです」
「少ないんだ」
「だから現地で聞き取ります。ただし、聞き取りの前に作業範囲を確認します」
「順番、逆じゃないですか」
「逆ではありません」
美緒はそこで、ようやく透の方を見た。
「聞いたあとに“できます”と言って、契約上できませんでした、が一番困ります」
黒瀬が小さく頷く。
「現場でありがちなやつだ」
「ありがちにしないでください」
「黒瀬さん、やったことあるんですか」
透が尋ねると、黒瀬は新聞をたたみながら目をそらした。
「ないとは言ってない」
「あります」
美緒が断言した。
「断定するな」
「記録があります」
「記録、強い」
黒瀬は少しだけ嫌そうな顔をした。
透はその表情を見て、妙に納得してしまう。
この業界は、面倒くさい。
ただ、面倒にしておかないと、誰かが潰れる。
「今回は調査からです」
美緒は話を戻した。
「必要なら簡易対処。ただし、二次調査が必要と判断したら、そこで止めます」
「止めるんですか」
「止めます」
きっぱりとした声だった。
「下請けが、現場判断で案件を大きくしないでください」
「耳が痛いな」
「黒瀬さんにも言っています」
「聞こえてる」
透は苦笑しながら、現場用の鞄を手に取った。
札、記録端末、簡易観測器、手袋、同意書、説明用紙。
幽霊退治という言葉から想像するものより、持ち物はずっと事務的だった。
けれど、その事務的なものの先に、人の寝息や痛みがある。
そういう仕事なのだと、透は少しずつ理解し始めていた。
◆ 二 二〇三号室
依頼人は、佐伯菜月。
二十代の女性で、先月、問題の二〇三号室へ入居したばかりだという。
アパートは駅から近く、小ぎれいで、いかにも普通だった。外壁は淡いベージュ。植え込みは手入れされ、共用廊下には目立った汚れもない。家賃は相場より少し安いが、怪談めいた不気味さは外観にも室内にも見当たらない。
だからこそ、佐伯の顔色の悪さが目についた。
「夜中に、首を絞められるみたいな感じで目が覚めるんです」
部屋の前で、佐伯は両手を重ねるようにして自分の首元を押さえた。
「それで、朝になると赤い痕が残っていて……」
黒瀬は落ち着いた声で確認する。
「佐伯さんは、最初から霊障だと思って相談したわけではないですね」
「はい。皮膚科にも行きました。内科にも行きました。睡眠外来は予約待ちです。でも、原因がはっきりしなくて」
佐伯は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「外泊した日は起きないんです。この部屋で寝た時だけで、痕の位置も毎回似ていて……それで、管理会社に相談したら、こちらを紹介されました」
「本人由来じゃなくて、場所由来っぽいですね」
透が思わず呟くと、黒瀬がすぐに釘を刺した。
「ぽい、で決めるな」
「はい」
その時、黒瀬の端末が短く震えた。
美緒からの追加連絡だった。
> 前入居者情報、回答あり。
> 告知事項には該当しない、とのこと。
> ただし清掃履歴、消臭施工、親族対応済みの記載あり。
> 生活残滓型の可能性あり。決めつけ注意。
透は最後の一文を見て、小さく息を漏らした。
「決めつけ注意って書かれてる」
「お前宛てだな」
「俺宛てですか」
「俺宛てでもある」
黒瀬は端末をしまい、佐伯に向き直った。
佐伯は不安そうに、二人の顔を見比べている。
「今の段階では、断定しません。ただ、部屋に何かが残っている可能性はあります」
黒瀬は言った。
「調査します」
佐伯は小さく頷き、鍵を開けた。
◆ 三 手がある
二〇三号室は、普通の部屋だった。
ワンルーム。小さなキッチン。ユニットバス。窓際に置かれたベッド。隅にはまだ開けていない段ボールが二つ。
引っ越してきたばかりで生活感は薄いが、汚れているわけでも荒れているわけでもない。
本当に、ただの部屋だ。
「思ってたより普通ですね」
透が言うと、黒瀬は靴を脱ぎながら答えた。
「普通の場所で起きるから仕事になる。いかにも出そうな場所だけなら、誰も住まない」
それはもっともだった。
佐伯は玄関側に下がる。
「佐伯さんはそこで待っていてください。異変があったら、こちらから声をかけます」
「はい」
黒瀬は部屋に入る前に、作業範囲と同意の確認をもう一度行った。専有部内の調査。人体への干渉が確認された場合の簡易対処。構造物への加工なし。共用部へ出た場合は中断。
佐伯が頷いたのを確認してから、透は部屋の中央に立った。
壁を見る。
床を見る。
ベッドを見る。
そこにある家具ではなく、そこに残っているものを拾うように、意識の焦点をずらす。
観測。
透にとってそれは、目を凝らすことに少し似ていた。ただし、見るのは色や形ではない。空気の密度、手触り、残っている癖、同じ動作を何度もなぞった跡。
部屋の輪郭が、少しだけ別の意味を帯びる。
窓際のベッド。
右側。
枕元より、少し下。
何かが濃い。
「……手があります」
佐伯が息を呑んだ。
「手?」
黒瀬は佐伯を振り返らず、透だけに尋ねる。
「形は」
「手だけです。人の形じゃない。動いてます」
「何をしている」
透は言いかけた。
首を絞めている、と。
だが、その前に黒瀬が言った。
「決めつけるな。観測で拾ったものだけ言え」
透は息を整えた。
見えているものだけ。
分かった気になったものではなく、拾えているものだけ。
「……布団を、引いてます」
透はゆっくりと言葉にする。
「肩にかけてる。それを、ずっと繰り返してます」
佐伯が口元を押さえた。
透は見続ける。
布団を引く。
肩へかける。
戻る。
布団を引く。
肩へかける。
戻る。
それは、首を絞めているのではなかった。
布団をかけ直しているのだ。
※第1話「首を絞める部屋」は全三回です。
続きます。
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