(一)事故記録の一画
◆ 一 事故記録の一画
片桐美緒は、黒瀬退魔処理の事務所で、他社の現場事故記録に目を通していた。
それは、美緒の仕事として明確に決められているわけではない。
元請けから共有される匿名化された事故記録や、業界内で回ってくる注意喚起資料を、必要な範囲で確認しているだけだ。
ただ、美緒はそれを習慣にしていた。
黒瀬退魔処理の現場にも、似たような事故が起きるかもしれないからだ。
事故記録の多くは、どこか雑だった。
報告書の文章は荒い。
添付写真はぶれている。
術式図は途中で途切れている。
署名欄には、かすれや記入漏れがある。
それ自体は珍しくない。
雨。
夜間作業。
急な避難誘導。
元請け承認待ち。
複数社の立ち入り。
術具の緊急使用。
そういう現場では、書類も乱れる。
乱れた書類を見て、すぐに現場を責めるほど、美緒は現場を知らないわけではない。
だから、通常なら分類して終わりだった。
軽度術式暴発。
現場混乱。
負傷者なし。
処理後、経過観察。
美緒は、一件の事故報告書を開く。
事故そのものは大きくない。
術式の一部が暴発し、周辺術具が焼けた。
現場は一時混乱したが、負傷者はなし。
処理後の再発も確認されていない。
報告分類としては、軽度。
美緒は署名欄を見る。
一画足りない。
署名した本人の癖かもしれない。
紙の劣化かもしれない。
スキャン時のかすれかもしれない。
ペン先が引っかかっただけかもしれない。
説明はいくらでもつく。
美緒は、別の記録を開いた。
こちらの署名は全体がかすれている。
雨天作業だったという注記がある。
紙の端には水濡れの跡もある。
これは、おそらく紙の問題だ。
もう一件。
こちらは術者名の最後だけ少し崩れている。
ただし、本人が負傷後に書いた署名だと注記がある。
不自然ではない。
美緒は、最初の記録へ戻る。
もう一度、署名欄を見る。
欠けているのは、かすれではない。
筆圧が抜けたのでもない。
書き忘れたように、一画だけがない。
美緒は小さく呟いた。
「……やっぱり、一画足りない」
それ以上は言わない。
断定できることではない。
断定してはいけないことでもある。
ただ、美緒はその記録を閉じず、控え用のフォルダに移した。
その時、元請けから通達が入る。
> 術式設計支援AI「式守」試験運用予定
> 現場判断補助、報告書標準化、古典術式記録の再評価を目的とする
美緒は通達文を読む。
透なら面白がるかもしれない。
篠宮は慎重になるだろう。
黒瀬は、面倒なものが来たという顔をするはずだ。
古い術師は、良い顔をしないかもしれない。
美緒自身は、AIのことをよく知らない。
ただ、嫌な予感だけはあった。
現場の言い分と、管理側の理屈。
古い作法と、新しい仕組み。
記録に残らない違和感と、記録にしか残らない現実。
美緒は事故記録の署名欄を、もう一度だけ見る。
一画足りない。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
分からないものを分かったことにはしない。
だが、分からないまま捨てることもしない。
美緒は画面を閉じた。
※第4話「見積外の怪異」は全七回です。
続きます。
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