初めての夜
土曜日の夕方六時。素直は押し潰されそうなほどの緊張に耐えながら、生徒手帳に書き込まれた住所の前に立っていた。
そこは、富裕層が多い名門校に通っているとはいえ、高校生が一人で住むには贅沢すぎる、閑静な高級マンションだった。
(本当に、ここなのか……)
震える指先でインターホンを押す。
ほどなくして「開いてるから入れ」と、スピーカー越しに圭司のフラットな声が響いた。
重いドアを開けて中へ進むと、生活感の薄い、洗練された空間が広がっている。
ソファーに深く腰掛け、スマホをいじっていた圭司が、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。
少し着崩した部屋着姿の彼は、制服の時よりも、どこか少し大人びて見える。
「遅れずに来たな」
圭司は立ち上がると、品定めするように、上から目線で素直を見下ろし、ふっと薄く笑った。
「そんなに緊張するなよ、まだ何もしてないだろ。――それとも、何かして欲しいのか?」
「……っ!」
「何……?想像した?」
「ちがっ……!!」
「ぷっ!ハハハハ」
彼は、耳まで真っ赤にして身体を強張らせている素直を見て、今度は軽快な笑い声を上げた。
そのまま細めた目を向けながら、素直の前を通り過ぎ、キッチンへと入っていく。
「こっち来て座れよ。夕飯、まだだろ?」
何がツボに入ったのか、彼はまだ笑いを堪え、今にも吹き出しそうな様子で、リビングと続きになったダイニングへ素直を招いた。
奥からは何やらゴソゴソと物音が聞こえてくる。
素直は言われるがまま、おずおずと、ダイニングへ移り、椅子を引いて腰掛けた。
どうしていいのか分からず、手持ち無沙汰にただじっとテーブルの一点に視線を落とす。
しばらくすると、あらかじめ頼んであったのだろう。レンジで温められたデリバリー容器の料理が、素直の前に手際よく並べられた。
それでも、ご飯だけはちゃんと茶碗に盛られている。
「食べられないものはないか?」
箸とグラスを用意しながら、圭司が不意に尋ねてきた。
そんな細やかな気遣いをみせる彼が意外すぎて、素直は思わず顔を上げてその姿を見つめた。
「ない……」
弱々しい声が、静かな部屋に伝う。
「俺一人だから、気兼ねすることないぞ」
その言葉がよけいに緊張を誘い、素直は膝の上に置いていた手をぎゅっと握りしめて、再び俯いた。
「食べろよ」
向かい合わせに座った圭司が、素直を促し、自分も「いただきます」と小さく合掌して箸を取る。
素直も上目遣いにチラリと彼を窺ってから、すぐに視線を落として両手を合わせた。
「頂きます」
何を話せばいいのかも分からず、ただ静かに箸を動かす素直を、圭司は特に何も言わず、正面からじっと見つめてくる。
その視線を、素直は痛いほど肌に感じていた。
何を食べても味がしない。こんなに味気ない食事は、生まれて初めてだった。
両親を亡くした時でさえ、これほどひどくはなかった。
胸が詰まるような息苦しさに、どうしても食欲が湧かず、素直はそっと箸を置いた。
「もう食べないのか?」
少し心配しているのか、圭司がいつもとは違う優しい眼差しを向ける。
「うん……ごちそうさま」
「じゃあ、後で腹減ったら、何か用意してやるから言えよ」
相変わらず上から目線の物言いではあったが、彼のなかに不器用な温かさを感じて、素直は自然に言葉を返していた。
「ありがとう……」
圭司は徐に席を立つと、テーブルの上を片付け始めた。
彼が自分に合わせ、食事を途中で切り上げてくれたのは明らかだった。
素直は申し訳なくなって、慌てて席を立つ。
「手伝うよ……」
「いいから、座ってろ」
肩を軽く押され、ストンと椅子に落とされた素直は、驚いて顔を見上げた。
「でも……」
圭司は片付けを続けながら、目を合わせ、軽く微笑んだ。それは、素直が初めて見る彼の優しい笑顔だった。
その途端、なぜかあの学園祭の日の彼女の姿が脳裏にシンクロし、ドクンと胸がざわつく。
そんなはずはないと、分かっていても彼の顔から視線を逸らせなくなってしまった。
「俺の顔に何かついてるのか?」
「べ、別に……」
ハッとして慌てて顔を背けた素直を、圭司は逃さないように、また上から目線のトーンでからかってくる。
「ひょっとして、俺に惚れた?」
アンバーの瞳が、獲物を狙う鷹のように、怪しい光を放っている。
気づくと、圭司はいつもの高飛車な態度に戻っていた。
「ま、まさか。自惚れるな……よ」
心の内を覗かれたような気がして、素直は躍起になって否定した。
そんな彼の慌てぶりを、圭司は楽しそうに見つめ、キッチンへと歩き出しながら、唇を微かに動かして音にもならないような声を零した。
「惚れてくれればいいのに……」
「え……」
彼の口から漏れた小さな声は静かな部屋に溶け、はっきりと届かない。
今、何と言ったのだろうか。そう思って聞き返した時には、もう遅かった。
微かな呟きだけを残し、圭司は素直に背を向けて、そのままキッチンへ姿を消した。
それは、本当に彼の言葉だったのか、それとも気のせいだったのか、素直には分からなかった。
しばらくして、コーヒーの仄かな香りが漂ってきたかとおもうと、片付けを終えた圭司が、カップを二つ手にして戻ってきた。
一つを素直の前に置くと、自分はリビングへ移ってソファーに深く腰を下ろす。
リモコンを手に取り、ここでようやくテレビをつけた。
画面が映し出され、賑やかな音が部屋を満たすが、圭司はそれに視線を向けることもせず、スマホを取り出して弄り始めた。
その様子を横目で見ていた素直は、コーヒーに視線を落とし、カップを両手で包みこんだ。
手の平からじんわりと確かな熱が伝わってくる。
その温かさに、少しだけ落ち着きを取り戻すことができたような気がした。
バラエティ番組の笑い声だけが、二人の間の奇妙な沈黙を埋めていく。
そのまま時間はゆっくりと流れ、それ以上は何をするでもなく、お互いの気配を感じたまま、二人の初めての夜は静かに更けていった。




