意外な素顔
「先に風呂入れよ、タオルと着替は用意しておいたから」
一時の間、静まっていた心臓が、また肋骨の裏を叩きつけるように脈を打ち始める。
その激しい鼓動が、ここへ来た理由を嫌でも思い出させた。
当たり前のように促され、素直は逃げるようにして教えられた浴室へと向かった。
温かいシャワーを浴びていても、身体の震えは一向に止まらない。
これから未央の代わりに、自分はこの家に泊まり、あの男とベッドを共にしなければならないのだ。
その事実が、容赦なく押し寄せてくる。
用意されていた大きめのTシャツを借りて脱衣所を出ると、リビングの明かりはすでに落とされていた。
奥にある寝室の、少しだけ開いたドアの隙間から薄明かりが漏れている。
「……遅い」
意を決して扉を開けた瞬間、冷ややかな声が降ってきた。
中に入ると、クイーンサイズはあると思われる大きなベッドに圭司が腰掛けて待っていた。
照明は薄暗く落とされ、壁のウォールランプが柔らかく部屋の輪郭を浮かび上がらせている。
「俺も風呂入ってくるから、先にベッドに入ってていいぞ」
立ち上がった圭司が、素直と入れ違うようにドアへと向かう。
「え……あ、うん」
応じる声が情けないほど震えていた。
少しでも緊張から意識をそらそうと、素直は両手の指先をぎゅっと握り締め、手のひらに爪を立てる。
圭司が出ていくと、素直は固く目を閉じ、堪えていた息を何度も大きく吐き出した。
ハァ――、ハァ――、ハァ――。
荒い呼吸を整え、ようやく目を開けた素直は、乾いた喉に無理やり唾を流し込んで、ベッドへと向かった。
ふと見ると、脇にあるソファーに自分の荷物が置かれている。
抱えていた服を鞄に押し込み、スマホを取り出してから、入口に背を向けるようにしてベッドへ潜り込んだ。
少しでも気を紛らわせようと、スマホの画面を無意味に弄ってはみても、何の気休めにもならなかった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
――ガチャリ。
静寂を破り、ドアの開く音がして、圭司が戻ってきた。
素直は慌てて画面を伏せると、端末を枕の下へ突っ込み、ぎゅっと目を閉じた。
部屋の明かりが完全に消され、視界が真っ暗になる。
直後、すぐ後のマットレスが沈み、風呂上がりの微かな熱と共に、圭司の気配がすぐ背後に迫ってきた。
あまりの恐怖と緊張に今すぐここから逃げ出してしまいたい衝動が素直を襲う。
激しすぎる心臓の音が暗闇の中で圭司に聞こえてしまうのではないかと、気が気でなかった。
その時、シーツの擦れるかすかな音がした。
次の瞬間、素直の腰のあたりに、後からそっと腕が回される。
(……っ!)
圭司の吐息が首筋にかかり、素直はぞくっと身震いした。
悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え、ぎゅっと目を閉じて身体をガチガチに硬直させた。
ついに、恐れていたことが始まるのだと身構えた。
しかし、どれだけ経っても次の衝撃は訪れない。
回された腕は素直の身体をしっかりと固定しているだけで、それ以上どこかを触ってくる気配はなかった。
代わりに、トクントクンと背中から伝わってくる規則正しい心音と、す――、す――、という静かな寝息が、すぐ耳元に聞こえてくる。
(……え?)
素直は恐る恐る、片目を薄く開けた。
圭司は何もせず、ただ素直を後ろから抱きしめたまま、完全に眠りについたのだった。
あれほど高飛車に脅しておきながら、ただ抱き枕代わりにして眠るだけ。
限界まで緊張していた素直は、あまりの予想外の展開に、すっかり拍子抜けしてしまった。
少し緊張が緩んだこともあってか、素直はそのまま深い眠りに落ちていた。
――翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日の眩しさに引き上げられるように、素直はゆっくりと目を覚ました。
回された腕はいつの間にか緩んでいる。
寝返りを打って正面を向くと、すぐ目の前に圭司の顔があった。
まだ眠っている彼の顔からは、いつもの傲慢な棘が消え失せていて、驚くほど端整で綺麗だった。
(やっぱり……似てる……)
圭司の寝顔を見つめていると、あの彼女の顔が脳裏に浮かび、胸がざわつく。
そうするうちに、彼の長い睫毛が微かに揺れ、ゆっくりと瞼が開いた。
視線が交わった瞬間、素直は息を呑む。
コンタクトを外した圭司の瞳は、吸い込まれそうなほど深い黒褐色をしていた。
(黒い眼……?そんな、なんで……)
その瞳が、自分の中で彼女のものと完全に重なった。
あまりのそっくりさに、激しい戸惑いが押し寄せ、言葉も出てこない。
しかし、当の圭司は素直の困惑など意に介さず、平然としていた。
「よく眠れたか?」
圭司は、大きく目を見開いたまま身じろぎもしない素直の髪をかき上げて微笑んだ。
その顔が、どうしても彼女に見えてしまい、不覚にも胸がときめいた。
(彼女も……こんなふうに笑うんだろうか……?)
思い描くだけで、胸が熱くなる。
「……何?俺の顔に見とれてるのか?」
まだ少しだけ眠たげな瞳が、ふっと薄く笑った。
「誰がっ!!」
あまりにもいつも通りの傲慢な態度に、ハッと我に返って慌てて否定する。
(そんなわけない……)
よくよく見ると、彼女の瞳はもっと黒かった。
そう自分を納得させ、胸に浮かんだ大いなる疑問を、またしても素直は打ち消した。
しかし、驚くことは、それだけでは終わらなかった。
不遜な笑みを残しベッドを降りた圭司は、そのままキッチンへ向かうと、手際よく二人分のコーヒーを淹れ始めた。
素直も寝室を出て、キッチンのカウンター席へと腰を下ろす。
トーストや目玉焼きといった簡単な朝食まで、彼は当たり前のように用意してくれた。普段の高慢な命令を下す姿からは想像もつかないほど、その立ち居振る舞いはごく自然で、どこか優しく見える。
差し出されたコーヒーを両手で受け取り、素直はカウンターの向こうにある圭司の背中をそっと見つめた。
(五回寝ろだなんてとんでもないことを言うけれど……本当は、そんなに悪いヤツじゃないのかも……)
知らず知らずのうちに、張り詰めていた警戒心が少しずつ解けていくのを、素直は感じていた。
その後、朝食を終えてマンションを後にした素直は、自分の家へと帰宅した。
玄関のドアを開けて中へ入ると、台所からトントンと小気味よい包丁の音が響いてきた。
「あ、お兄ちゃんお帰り! バイトお疲れ様」
エプロン姿の未央がキッチンからひょっこりと顔を覗かせ、いつもの見慣れた笑顔を向けてくる。
「うん、ただいま。……ちょっと疲れたけど、大丈夫」
安心させるように微笑みながら、素直は心の中でそっと息を吐いた。
未央には、スマホの弁償代は分割払いで話がついたと、金曜日のうちに伝えてある。そして、そのお金を少しでも早く返すために、週末だけの割のいい泊まり込みのバイトを見つけたと説明し、圭司とのことは完全に隠し通していた。
「ご飯、もうすぐできるよ」
「ありがとう……未央、手伝うよ」
素直は妹の頭を優しく撫でてやった。
妹を完全に守りきり、何一つ不自由のない日常を維持できたという圧倒的な安堵感。
しかし、その裏で、素直の胸には、優しい嘘で手に入れた偽りの平穏の重さと、あの掴みどころのない尾形圭司という男の存在が、より一層大きく刻まれるのだった。




