素直の決意
その後も素直は圭司の言葉が頭から離れず、その日の授業はずっと上の空で過ごしたのだった。
家に帰ると、先に帰っていた未央が疲れた様子の素直を見て顔を曇らせる。
「お兄ちゃん、大丈夫……?」
未央は素直の様子を窺うように尋ねた。
「あ、うん大丈夫だよ」
素直は極力明るく笑って取り繕うが、それでも未央の表情は晴れない。
素直に任せたとはいえ、やはり結果が気になるのだろう。
「話はほとんど着いてるから、未央は心配しなくていいよ」
「本当に……?」
「うん。明日、もう一度詳しく話すことになってるから、大丈夫だ」
まだ心配顔の妹を宥めるように、素直は優しくポン、ポンと頭を撫でた。
「うん」
ようやく納得して頷いた未央に、彼は兄らしく言った。
「さ、晩ごはんの用意だ」
「ご飯は炊いてあるよ」
未央が微笑んで言う。
笑顔が戻った妹を見て素直も少しほっとした。
とはいえ先のことを考えると、やはり気は重かった。
どう考えても、すぐに十五万を用意する手段はない。
しかし、あの傲慢な男に自分の身体を差し出すなんて、考えただけでも悍ましいし、なによりプライドが引き裂かれる思いだ。
かといって、このまま二日の期限が過ぎれば、未央があの男の毒牙にかかってしまう。
(俺が代わりに……)
ベッドに入ってからも、素直は暗闇の天井を見つめながら、何度も自問自答を繰り返した。
男の自分なら、何をされてもどうということはない。
少し我慢すれば済むことだ。
だが、女の子の未央はそれくらいでは済まなくなる。
未央は二人っ切りの家族だ、傷付けるようなことは、兄として絶対させるわけにはいかない。
(俺さえ我慢すれば……未央は助かるんだ……)
そうして、一睡もできないまま朝を迎えた素直は、悲壮な決意を固めていた。
翌日の昼休み。
ざわざわとした廊下で、素直は昨日と同じように圭司の教室の入口近くに立っていた。
クラスメイトに呼び出してもらう勇気すらなく、ただじっと待っていると、端正な佇まいの圭司がふらりと廊下に出て来た。
素直の姿を認めても、彼は特に驚く様子もなく、ふっと笑って声を掛けてきた。
「……何?答え決まったのか?」
素直は拳をきつく握りしめ、震えそうになる声を必死に抑え込みながら、圭司の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「――お前の……言うとおりにする……」
これ以上ないほどに屈辱的なその言葉を、素直はついに自らの口で告げた。
圭司が素直の顔を覗き込む。
「言うとおりって?」
「だから、その……俺がお前と……」
素直は俯いて、消え入りそうな声で答えたが、最後の言葉だけはどうしても言えなかった。
圭司は素直の悲壮な決意を目の当たりにしても平然としていた。
いや、むしろこうなることを予想していたように、満足気な表情で彼をじっと見つめていた。
ただ、人目のある廊下でこれ以上話すのは不都合だと判断したのだろう。
「……こっち来い」
圭司は短く告げると、素直の腕を掴んで人目の少ない廊下の隅へと引っ張っていった。
素直を壁際にやり、周囲に声が漏れないほど至近距離まで近づいた圭司は、相変わらず高飛車な笑みを浮かべ、上から目線で詳しい条件を告げてきた。
「いい返事だ。じゃあ、詳しい条件を教えてやる」
彼はアンバーの瞳を細め、素直の顔を覗き込むようにして言葉を続ける。
「今週から、土曜日ごとに俺のマンションへ来い。そこで一晩泊まること。それを合わせて五回だ」
「泊まる……?」
ただでさえ恐ろしい要求なのに、「泊まり」というさらに踏み込んだ条件を突きつけられ、素直に躊躇いの表情が浮かぶ。
「なんだよ、怖気づいたのか? 今さら撤回するなんて言うんじゃないだろうな? お兄ちゃん」
圭司がからかうように素直の胸を指でつつく。
「そんなわけ……ない」
圭司に煽られ、素直はキッと彼を睨みつけた。
「上出来だ」
圭司は何やらポケットを探っていたが、目当ての物が無かったのか、素直に向かって手を差し出した。
「生徒手帳出せ」
「え……?」
「早く」
素直は理由も分からず、言われるまま胸ポケットから生徒手帳を取り出して圭司に手渡した。
圭司はそれを受け取ると、自分の胸ポケットからペンを抜き取り、ぎっしりと校則の書かれたページの後にあるメモ欄を開いて、そこに何か書きつけてからそのまま素直に戻した。
素直が手に取って見ると、そこには整った文字で住所が書かれていた。
「土曜日の夕方六時。遅れずに……必ず来いよ、結城」
圭司はそれだけ言い残すと、踵を返し、自分の教室へと戻っていった。
手元に残された住所のメモを見つめながら、素直はこれから始まる恐ろしい土曜日のカウントダウンに、ただただ身震いしていた。




