圭司の噂
「ただいま……」
玄関のドアを開閉する音がして、未央がリビングに入って来た。
「おかえり」
両親が亡くなってから未央と二人きりで暮らしている素直は、夕食の用意をしていた手を止めてキッチンからニッコリ笑って振り返った。
しかし、素直の目に映ったのは、青白い顔をしてリビングの入り口に立ったまま、黙って項垂れている未央の姿だった。
「未央……どうしたんだ?」
素直は未央のただならぬ様子に気付いて眉を寄せた。
「お兄ちゃん、私……どうしよう……」
そう言って素直の顔を見た途端、未央の大きな目から涙が零れ落ちた。
「……!!」
素直は慌てて未央の側へ来ると、彼女をソファーに座らせて温かいココアを淹れてやった。
それでも未央の体は小刻みに震えている。
「こんなに震えて……何があったんだ……?」
素直は彼女の隣に座ると、優しく未央の背中を撫でながら言葉を促した。
未央は泣きながら下校時に他人のスマホを壊してしまったこと、その代金十五万を一括で払えと請求されていることなどを途切れ途切れに話したのだった。
「十五万……」
素直は眉間に深い皺を寄せた。
亡くなった両親はそれなりのものを遺してくれてはいるが、二人の大学進学費用は残しておかなければならない。それを考えると生活はギリギリだ。
日常の不足分や臨時の出費は素直がバイトをしたお金で補っている。
一度に十五万ものお金を用意するのは、今の素直たちにとって容易なことではなかった。
「それで……?」
素直は険しい顔付きで先を促す。
「一括で払えないなら……一回三万として俺と五回寝ろって……二日以内に決めろって……言われたの……」
そう言って未央は両腕で自分の体を抱え込むように俯いた。
「なっ……!! そんな無茶な、相手は誰なんだ!?」
素直は怒りに震える手を握りしめながら、それでも未央を気遣って優しく問い掛けた。
「お兄ちゃんと同じ……二年の……尾形圭司っていう人……」
「尾形圭司!?」
圭司は隣のクラスなのでマジマジと顔を見ることは無かったが、それでも名前だけはよく知っていた。
それは、彼が女の子をとっかえひっかえしている、男子部でも有名なヤリ○ンだというもっぱらの噂だからだ。
しかし、実際は女の子から強く誘われて仕方なくデートはするものの、圭司が手を出したことは一度も無く、噂だけが一人歩きをしていたのだ。
とはいえ、そんな彼の実情など今の素直が知る由もなかった。
「お兄ちゃん……私……どうしたらいいの……?」
未央は不安そうに素直を見詰めている。
震える妹の手を見て彼は困ったように眉を下げた。
(五回寝ろだなんて……正気じゃない……)
圭司がどんなつもりでそんなことを言ったのかまだ分からないが、そんな理不尽な要求を受け入れるわけにはいかない。
「大丈夫だ。お金のことはお兄ちゃんが何とかするから、未央は何も
心配しなくていい」
「でも……」
「大丈夫だって、明日お兄ちゃんが尾形と話をつけるから……安心しろ……」
心配そうに見上げる未央の頭を素直は安心させるようにポンポンと撫でて優しく頷いてみせた。
「うん……お兄ちゃんありがとう……」
素直の態度に未央は少し安心したようだが、それでも疲労の色は隠せなかった。
「未央、先に風呂にでも入るか? そしたら少しは気も晴れるだろうし……夕飯は少し落ち着いてからにしよう」
「うん、そうする……」
そう促され、自分の部屋へ向かう未央の後ろ姿を、素直はじっと見詰めていた。
その夜、素直はベッドの中で尾形圭司について思いを巡らせていた。
女の子との噂は絶えないが、他人を脅したり暴力を振るうような粗暴な噂は聞かない。
顔もうろ覚えの素直にとって彼はむしろ掴みどころのない相手なのだ。
(少しははなしが通じるヤツだといいけど……)
あれこれ考えてはみても、明確な解決策は見つからない。
未央にはああ言ったものの、素直自身もまた、明日の不安を抱えながら静かに目を閉じたのだった。




