四十一話 睡眠の真実
カツッ、カツッ……。
暗く重苦しい地下の空気の中、静かに近づいてくる足音が響く。
泥と血にまみれた床に膝をついたまま、虚ろな目でゆっくりと顔を上げると、そこには不気味な笑みを浮かべた人形使いが立っていた。その手には、先ほどまで戦っていた太川の頭部が握られている。
「お前だけはなぁ、殺してはいけないと上に命令されてるんだなぁ」
人形使いはあっさりとそれを放り投げると、抵抗する力すら失っていた俺の腕を強引に掴み上げ、そのまま暗がりの中へと引きずっていった。
連れて行かれた先は、地上へと続く特別な専用エレベーターだった。
重い駆動音とともに、下降ではなく一気に上昇を始める。鉄格子の隙間から見えていた薄暗い地下の廃墟や粗末な居住区の景色が、層を重ねるごとに急速に遠ざかっていく。
ガラス越しに広がる景色が、徐々に変わっていく。
暗闇の中から、やがて人工的な光を放つ巨大な建造物群、近代的な高層ビルが立ち並ぶ整然とした「上の都市」の煌びやかな夜景が視界一杯に広がった。
エレベーターは、その都市の最も高い層で静かに停止した。
重厚なドアが左右に開く。
目の前に広がっていたのは、壁の端すら見えないほど広大な、静寂に包まれた空間だった。
広大なフロアの真ん中に、ぽつんと一つだけ置かれた高背の椅子。そこには、一人の男が背を向けて座っていた。
足音に気づいたのか、椅子がゆっくりと回転する。
そこに座っていた人物の顔を見た瞬間、全身の血が引き足の感覚がなくなった。
(……え……? 嘘だろ……そんなわけ……ここ、異世界だろ……?)
そこにいたのは、前の世界で四年前に行方不明になっていた兄——峰 降死だった。
「降死兄ちゃん……!? なんで……なんでここにいるんだよ……!?」
降死兄ちゃんは静かに椅子から立ち上がると、昔とまったく変わらない、少し低くて穏やかな声のまま、ゆっくりと俺に近づいてきた。その表情には一切の怒りも嘲笑もなく、ただどこまでも静かな真顔だった。
「お前も、もうわかっているんだろ。いい加減目を覚ましなさい、小輔。もう終わりにしなさい……異世界は」
「……な、なに言ってるんだよ……? どういう意味だよ、降死兄ちゃん……説明してくれよ……!」
パニックになる俺を前に、降死兄ちゃんは振り返り、椅子の上に置かれていた一冊の重厚な本を手にとった。
「バベルの図書館から取ってきた。……これを読め」
手渡された古びた本を開いた瞬間、頭の奥で何かが爆ぜた。
押し込められていた『前の世界』の記憶が、濁流となって脳内に直接流れ込んでくる。
(俺は……電車でマイクロスリープして……この世界に迷い込んだはずじゃ……)
だが、開かれたページに印刷されていたのは、まったく違う景色だった。
そこには、作業服を着た人々の写真。エリカ、低須、太川、リゼ……この世界で出会ったはずの仲間たちと酷似した顔の人々が、建築現場のような場所で作業をしている姿。そして、その中には俺自身の姿もあった。
ページをめくる。
崩れ落ちる巨大な鉄骨。事故の瞬間。
血と泥にまみれ、酷い姿で倒れ込む仲間たち。エリカも、低須も、太川も、リゼも……。
そして、その悲惨な現場で、顔を蒼白にして震えていた事故の加害者の顔。それは、この世界で出会った「フィン王子」の顔だった。
無免許運転を上司から強要され、取り返しのつかない事故を起こした男。
目の前で好きだった人や大切な同僚たちが奪われ、あまりの惨状と罪悪感、悲しみに耐えきれなくなった俺は——現実を受け入れることができず、脳が作り出したこの「夢の異世界」へと逃げ込んでいたのだ。
すべてが、解けていく。
何一つ守れなかった絶望。クイヤが願いを叶えてくれるという希望。生き返らせるという誓い。
そのすべてが、傷ついた心が現実から逃げるために作り出した虚構だった。現実のエリカたちも、もう二度と目を覚ますことはない。俺は彼らの現実での本当の名前すら、もう思い出すことができない。
降死兄ちゃんが、ぽろぽろと零れ落ちる俺の涙を静かに見つめ、優しく肩に手を置いた。
「もういいんだ。……ゆっくり休め。もう起きる時間だ、小輔。現実を生きろ」
「……嫌だ……帰りたくない……!!」
俺は地面に突っ伏し、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
あんな惨酷で、救いがなくて、大切なものが何一つ残っていないくだらない世界になんて、帰りたくない。この夢から覚めたら、俺にはもう何も残っていないんだから——。
「でも、この世界は俺が作り出したなら、俺の自由ってことだな」
俺は腕にありったけの力を込めた。そして、伝説の聖獣クイヤを顕現させた。
「クイヤ、俺の記憶を消して、またエリカとの出会いからやり直してくれないか? 元の世界には帰らない。俺はこの夢の異世界で生きる。だから記憶を消して、また召喚からお願いね。次はもう現実なんて思い出さないで、エリカたちが酷い姿で死ぬシナリオにしないからさ。今回は少し現実を思い出してしまった結果だからさぁ」
と言い放った。降死兄ちゃんは驚いた表情で、
「そんなのダメだ! この説明は3回目だ。前2回もお前はこの世界をやり直した。お前は現実でやり直さなくてはいけない、こんな世界にいてはいけないんだ。前に進む時が来たんだよ、もう終わりにしよう」
と手を差し伸べてきた。
俺は無言で、兄の胸を短剣で刺した。もう兄の胸から血なんて流れなかった。
クイヤは大きな光を放ち、空間を包み込んだ。
あー、この感覚、心地いいな。いいんだよ、辛い現実なんて生きなくても。
俺はまた記憶をなくし、始まりの地へと戻る。




