四十一話 睡眠は太川ホワイトデー死す
リゼは俺のことが好きだと、あの夜静かに告白してくれていた。
俺はそこからずっと逃げていたんだ。
愛していて亡くなったエリカがいるという、側から見たら意味の分からない言い訳を盾にして。生きているリゼの気持ちに向き合おうともせず、結局俺は彼女に何一つしてやれなかった。
(そんな目で見るなよ……リゼ……頼むから……)
強くなっていた気がしていた。不眠の過酷な死線を乗り越え、チャンピオンになり、何だって切り開いていける気になっていた。
だけど、守りたかったものはこんなにも呆気なく消える。失う瞬間なんて、一瞬だった。
「もう……終わりだ……」
何もかもに絶望し、膝から崩れ落ちた俺の横で——ドクンと、空間そのものを震わせるような重苦しい脈動が跳ね上がった。
「もう、全ての記憶なんかいらない」
静かな、しかし激しい殺意を孕んだ太川ホワイトデーの声だった。
熱いパッションを宿していたその瞳からは光が消え、全身から放たれる魔力が禍々しく跳ね上がっていく。
「悪魔【ブエル】——我が刻の記憶を贄と為し、その威光を以て我に限界を超えし力を与えよ。名は、太川ホワイトデー!」
その詠唱とともに、太川ホワイトデーのトレードマークだった鮮やかなピンク色の髪が、凍りつくような深い青色へと一瞬で変貌していく。
——ガアァァァァァンッ!!!!
地下空間全体が悲鳴を上げるほどの魔圧が吹き荒れた。
大切な仲間と過ごした思い出、積み重ねてきた記憶のすべてを悪魔への代償として捧げ、限界を遥かに突破した力を引き出す捨て身の大禁忌。
「ひゃははっ……! なんだぁその魔力はぁ!? 面白い、面白いなぁオイ!!」
二刀流を構え直し、歓喜に顔を歪める人形使い。
ドガァァァァンッッ!!!!
轟音と衝撃波が交互に吹き荒れ、地下空間が激しく揺れ動く。
だが、俺の目にはもう、太川ホワイトデーと人形使いの姿すら捉えられなかった。
視認すら不可能な超高速の激突。青い魔力の残光と二刀の閃光が交差し、弾けた衝撃波だけで分厚い鉄骨が引きちぎられ、巨大な魔導機械や工場が次々と粉砕されていく。地下全体が狂ったように崩壊を始めていた。
だが、俺にはもう、戦いなんてどうでもよかった。
目の前には、上半身と下半身を切り離された低須の冷たい骸。
そして、首を跳ね飛ばされ、白く濁った目で俺を見つめたまま転がっているリゼ。
頭が何も考えられない。思考が、感情が、完全に焼き切れていた。
(異世界って……もっと楽しいところだろ……?)
エリカを失ったあの絶望から、俺は立ち直れるはずだった。
冷たい鉄格子のスラムの牢獄で、低須や太川の理屈っぽくて熱苦しいジョークに笑わされ、一緒に脱獄して。
薄暗い森で初めての魔物と戦った時、低須の見事なメス捌きに「すげえな」って感動して。
粗末な肉を焼きながら飯を食って、くだらないことで笑い合って……。
あんなに、あんなに楽しかったのに。
異世界に来てから、必死に手を伸ばして、やっと新しく積み上げてきた温かい人間関係。
少しずつ、少しずつ高く築き上げてきた絆の塔を——なんでこの世界は、横からこんなにも呆気なく、残酷にぶち壊してくるんだよ。
何がしたいんだよ。
誰がこんな悪趣味なシナリオ書いてやがるんだよ。
「あ……ぁ……」
崩れ落ちる天井から土砂と鉄くずが降り注ぐ中、俺は血の海に膝をついたまま、ただ声もなく涙を流していた。
ドガァァァァンッ!!
「ハぁぁぁぁッッ!!」
太川ホワイトデーの怒号とともに、超高濃度の青い魔力を纏った拳が空間を裂き、人形使いの顔面を正確に撃ち抜く。
だが、今の太川には自分がなぜ、生まれ育ったこの地下の街で、目の前の人形と命を削り合って殴り合っているのかすら分からなかった。
悪魔【ブエル】への代償として、大切な仲間との思い出も、旅の記憶も、己の過去すらもすべて削り落としてしまったからだ。
それでも——己の魂の底に刻まれた衝動だけが叫んでいた。
この目の前で薄汚い笑みを浮かべる人形だけは、絶対に生かしておいてはならないと。それだけを確信し、一発一発、魂を削るような重小の一撃を確実に叩き込んでいた。
殴られるたびに人形の身体は肉塊となって吹き飛び、消滅するように見えた。だが、死の概念を持たない不死の本体は、何事もなかったかのように即座に肉体を再生させ、二刀流の剣で残虐に反撃を繰り出してくる。
「ひゃははっ! 太川ホワイトデー、すごいねぇ! こんなパワー持っていたなんて、孤児院の時よりも何倍もいかれてるよぁ!」
狂気じみて笑いながら攻撃を叩き込んでいた人形使いだったが、不意にその笑みをピタリと止めた。
「——でも、無意味なんだよ。全てが」
冷酷な声とともに、二刀が閃く。
空間を切り裂く重い一撃が太川を襲った。
その瞬間、太川が振るっていた片方の腕が、肩から先ごと宙を舞っていた。
(……あ……?)
腕を失った違和感を覚えたコンマ数秒後、太川の視界が急激にグラリと傾き、猛スピードで地面に向かって落ちていった。
自分の胴体と、片腕を失って血を噴き出す身体を、下から見上げる日が来るなんて思いもしなかった。
——ぼと、と。
首だけが地面に落ちた。
もう、何も分からない。
自分は何のために戦っていたのか。なぜここで血を流し、死んでいくのか。
悪魔の契約と魔法によって限界まで強化されたタフな肉体のせいで、首を切られてもすぐに気を失うことすら許されない。
転がった首の角度のまま、己の惨めな胴体を目に焼き付けさせられ、「なぜ」という答えの出ない疑問を永遠に考え続けさせられる、最悪で残酷な時間が与えられた。
人形使いは、首だけになった太川を見下ろし、もう一度嘲笑った。
「だからさぁ、この世の人間全部クソで、無意味無価値なんだよぁ。こんなにも鍛えた太川、お前でもこんな簡単に負けて死ぬんだ。生きてる意味ってなぁに? お前はこんなに体を張ってなぁ、血を流しても、もう戦いの理由を覚えてすらないんだよなぁ?」
二刀を血塗られた床に突き立て、人形使いはどこまでも冷たく言い放つ。
「みんな死ぬべきなんだよ、この世界の人間は。……期待してたけど、がっかりだね。太川ホワイトデー、おやすみ、もう寝る時間だ」




