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四十話 睡眠は低須枝弥の永眠

階段を降り切った俺たちの眼前に広がっていたのは、まさに「地獄」という言葉すら生ぬるい光景だった。

そこら中で、ボロ切れのような服を纏った人々が、虚ろな目で延々と作業を続けている。

巨大な金属の歯車をただひたすら押し回し続ける男たち。意味があるのかすら分からない金属片を、泥と汗にまみれながらハンマーで叩き続ける女子供。

前世で過酷なブラック企業に勤め、不眠不休のデスマーチを幾度となく生き抜いてきた俺ですら、思わず絶句して足を止めた。

「……なんだよ、これ……」

何かが決定的に狂っている。

ただ過酷なだけじゃない。ここにあるのは、人間の尊厳や命そのものを徹底的に軽視した「作業」の残骸だ。前世のブラック企業だって、労働者が全員死んだら仕事が回らなくなるから、ギリギリ生かすための給与や飯は与えていた。

だが、ここは違う。

どう見ても人間が生きられる環境じゃない。有毒なガスが薄っすらと漂い、食べ物どころかまともな飲料水すらないように思える。

「……なあ太川。なんでこんな環境で、人が滅びずに残ってんだ……?」

俺の擦り切れそうな声に、フードを深々と被った太川が、歯を食いしばりながら押し殺した声で答えた。

「……逃げ出せるわけねえだろ。上に行く出口はさっきの厳重な警戒線のひとつきりだ。……そして死んだ奴から順に、新しい『補充』が送られてくるんだよ」

「補充……?」

「ああ。この国は外の世界に向けて『夢の技術都市メトロポリス』って華々しい求人や難民受け入れを大宣伝してんだよ。一獲千金を夢見て、あるいは貧困から逃れるために外からやってきた奴らが、入国した瞬間に『適性なし』って烙印を押されてこの地下へ叩き落とされるのさ……!」

太川の拳から血が滲む。

「ふむ……それだけではありませんね」

それまで静かに周囲の労働者を観察していた低須が、眼鏡のブリッジをクイッと押し上げながら、淡々と、しかし極めて冷徹な分析を口にした。

「僕の解剖学的・医学的見地から言わせてもらうと、彼らが配給されているあの黒いドロドロした合成食料……あれには強力な感情鎮静剤と、身体の痛覚を麻痺させる魔薬品が意図的に混入されていますね。つまり、思考力を奪って反乱を起こさせず、肉体が破壊される直前まで限界を超えて働かせるシステムが完成しているというわけです」

低須の言葉に、リゼが口元を押さえて青ざめた。

「そんな……じゃあ、死んじゃった人たちは……?」

「死体すらも無駄にはされませんよ」

低須は静かに首を振った。

「死体はあの大きな魔法陣に運ばれて、上の世界の魔法の契約の代償の贄にさせてもらう。」

長い階段を降り切った、まさにその瞬間だった。

——グサリ。

湿った空気を引き裂く、重く鈍い肉の切断音。

そしてすぐ隣から、「グハッ……!」という短い苦痛の声が聞こえた。

脳裏を刺すような急激な恐怖と悪寒が、全身の毛穴を一気に押し開く。なんで俺はもっと慎重にならなかったんだよ。

俺たちは貿易船の正規ルートから入国した。だから厳重な警備なんてないだろうと、完全に高をくくっていたのだ。だが、甘かった。そもそも、こんなに簡単に重要施設である地下層へ足を踏み入れられること自体に疑問を持つべきだった。ここはあの狂ったメトロポリス王国なのだから。

ゆっくりと視線を横へ落とすと、低須の腹部から、禍々しく光る刃が貫通していた。

「て……低須……?」

鮮血が溢れ出し、服を赤黒く染めていく。

間髪置かず、一閃。

低須の身体が、信じられない呆気なさで上半身と下半身の二つに分かれ、冷たい石畳の上に崩れ落ちた。

血の滴る剣の先を見上げると、そこにはあいつがいた。

あの憎き人形使いが、顔を歪めて嘲笑っていた。

「ひゃははっ! 敵のなぁ、領土に入ってきてこんなにも油断してるなんてなぁ、バカなんだよなぁ!」

パンッと刃を振るい、付着した血を豪快に壁へ飛び散らせる。前と武器が変わっている。手には二本の剣——二刀流だ。

「あ……が……」

金縛りに遭ったように、足が動かない。

何度も死線を潜り抜け、殺し合いやグロテスクな光景には慣れていたはずだった。なのに、体が指一本動かない。

低須が、もう何も喋らない。

あの冷たい鉄格子の中で、「あの〜……静かにしてもらっていいですか?」と真顔で言いながら、笑顔でベンチプレスをしながら話しかけてくれた、あの理屈っぽくてマイペースな仲間が。

ピクリとも動かず、ただ血の海の中に横たわっている。

「低須ぁぁぁぁぁッッ!!!!」

太川の裂けるような絶叫が、地下街の闇に虚しく響き渡った。

人形使いは血に濡れた二つの剣を悠々と肩に担ぎ、気味の悪い笑みを絶やすことなく言葉を続けた。

「俺はなぁ、本体以外にたくさんの人形を操れるんだよなぁ。で、どの人形も自死すると、近くの人間を代わりにランダムに殺して俺は生き返る呪いを持っていることを前は見せたよなぁ? でも本体はねぇ、死ぬことすら許されてない不死身な体で、自死他殺全ての『死』という概念を持っていないんだよ。あっ、ちなみに俺は本体ね? 他の人形は世界に散らばってるから」

奴のヘラヘラとした声が、低須の血の海に虚しく響く。

「で、しかも他人の人形を操れるんだよねぇ。例えば——こんな感じでね?」

人形使いが、楽しそうにリゼの方へと視線を向けた。

次の瞬間、——ガッ!!

ぐちゃり、と肉と骨が砕ける不吉な音が弾けた。

「あぁ……っ、う……っ……」

激痛に耐えかね、潰された半分の顔を押さえて小さく震えるリゼの泣き声が、地下の静寂に虚しく響く。

その声を聞いた瞬間、それまで狂気じみた笑みを浮かべていた人形使いの表情が、急激に冷たく、不機嫌なものへと歪んだ。

「俺はなぁ……こういう女が嫌いなんだよ」

人形使いは心底不愉快そうに舌打ちを漏らすと、蔑むような目でリゼを見下ろした。

「人形の醜い顔のくせに、髪で隠したりなんかしてさぁ。案外、人形の顔も悪くないのにねぇ。デメリットでしか考えられないバカなんだよなぁ」

淡々と言い終わるか終わらないかの、ほんのコンマ数秒の隙だった。

二刀流の剣が一閃した。

——ぼとり。

生々しく、重く鈍い音が足元で鳴った。

視線を落とすと、転がってきたものが俺の靴の先でぴたりと止まった。

リゼの頭部だった。

首の切断面から溢れ出た赤黒い血が、俺の靴とズボンの裾をじわじわと濡らしていく。白く濁り、完全に光を失った彼女の瞳が、まっすぐに俺の顔を見つめていた。

「……え……?」

何が起きたのか、頭が理解を拒絶する。

低須の切断された肉体。

顔を砕かれ、首を跳ね飛ばされたリゼ。

足元で動かなくなった、さっきまで生きていた仲間の顔。

「あ……あぁ……」

声にならない掠れた吐息しか出てこない。視界が急速に明暗を失い、歪んでいく。

「ひゃははっ! なぁんだよその顔! 人形が壊れただけで、そんな絶望した顔すんのかよぁ!」

嘲笑う人形使いの声が、どこか遠くの出来事のように耳の奥で響いていた。

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