三十七話 睡眠は風呂の中で
闘技場の熱狂を後にし、俺たちはすぐさま 孤児院へと戻った。
勝利の余韻に浸っている暇なんて一秒もない。
(明日……いや、明後日の0時まで絶対に起き続けなきゃ、俺は悪魔に命を奪われて昇天する……!)
勝者となった喜びよりも、背後から迫る「死」の圧迫感がすごすぎる。寝たら即死。どんなデスゲームだ。
「ちょっと小輔! 試合が終わったと思ったら急に『起き続けるための準備をする!』なんて、一体どういうことなのよ!?」
事情をかみ砕いて説明する暇もなく強引に連れ出されたリゼが、プンプンと怒りながら俺の後に続く。泣きそうだったアリーナでの顔はどこへやら、いつもの調子だ。
「説明は後だ! とにかく俺は明日の0時まで一睡も拒否しなきゃいけないんだよ! 寝てそのまま昇天なんて冗談じゃねえ!」
俺は孤児院の広い中庭に突撃すると、土魔法を無詠唱で展開。頑丈な土台を瞬時に組み上げた。
その上に、裏手から運んできた巨大な木桶をドカンと設置する。
「な、何する気……?」
「風呂だ!!」
「ふ……ふろ……?」
怪訝な顔をするリゼを無視し、桶の中に水をなみなみと注ぎ入れる。
さらに土台の隙間に太めの薪や枝をぎっしりと詰め込むと、指先から炎の無詠唱魔法を放って一気に着火した。
ごうごうと燃え上がる炎。木桶から少しずつ温かい湯気が立ち上り始める。
この世界に来てからというもの、体を拭く程度でまともな湯船に浸かったことがなかった。
だが今の俺には、湯の温もりで血行を良くし、交感神経を刺激して覚醒状態を維持する「温浴作戦」が必要不可欠なのだ。
「す、すご……これ、お湯が溜まってる……! 小輔、あんた魔法をそんな便利ツールみたいに使って……」
「背に腹は代えられないんだよ! リゼ、もし俺が白目を向きかけたら、容赦なく冷水をぶっかけるか叩き起こしてくれ!」
「え、えぇ……? 本当に寝たら死んじゃうの……?」
俺の尋常じゃない迫力に気圧されたのか、リゼはゴクリと唾を飲み込み、真剣な顔でうなずいた。
「わかったわ……! あんたが変な死に方しないように、あたしが徹底的に見張ってあげるわよ!」
湯加減を確認し、俺は勢いよく桶の中へと飛び込んだ。
「ふはぁぁぁぁ……効くぅぅぅ……!!」
染み渡る温もり。……が、温かいお湯に浸かった瞬間、猛烈なリラックス効果が脳を直撃した。
(あ、ヤバい……温かくて気持ちいい……目が……重い……)
「ちょっと小輔ぇぇぇッ!? 入った瞬間に目を閉じないでよッ!! 起きなさいよバカぁッ!!」
バシャアァッ!! と顔面に冷水を叩きつけられ、俺は「ぶはっ!?」と跳ね起きた。
危ない危ない……! 湯船の温もりがあまりにも心地よすぎて、一瞬意識が飛びかけていた。そのまま昇天する所だったぞ。
ふと空を見上げれば、すっかり太陽も沈み、濃紺の夜空が広がっている。
この暗闇と静けさはマズい。気を抜いた瞬間に、本能が睡眠を要求して脳のスイッチを強制シャットダウンしてしまいそうだ。
必死に頭を振って目を冴えさせようとした俺は、冷水バケツを構えて仁王立ちしているリゼへ視線を向け、思いつきで唐突に提案した。
「おいリゼ、お前も入れよ、風呂」
「……はぁっ!?」
リゼの動きがピタリと止まり、その顔が一瞬でりんごのように真っ赤に染まった。怒りと羞恥でぷくーっと頬を膨らませ、今にもキレそうな表情でプルプルと震えている。
「あ、あんたバカじゃないの!? なんであたしが小輔と一緒にそんな桶に入らなきゃいけないのよッ!!」
「いやだって、リゼが裸になれば流石の俺も興奮して『寝てしまう』なんて致命的な失態を起こさなくて済むだろ! 名付けて——『混浴オール作戦』だ!!」
俺が大真面目に胸を張って言い放つと、リゼは絶句したように口をぐぬぬと開閉させたあと、真っ赤な顔のまま叫んだ。
「サイテーーーーーッ!! 自分の命がかかってるからって何どさくさに紛れて変態みたいなこと言ってるのよこのバカ小輔ぇぇぇッ!!」
バシャアアアッ!!
「ぐはっ!?」
興奮どころか、本日二度目の容赦ない冷水ドボンである。
激しい水飛沫と共に、俺の覚醒度は嫌でもピークに達した。
「ぐはっ! ぶはっ……! クソっ、このままやられてたまるかよ!」
冷水を食らって覚醒したついでに、俺は無詠唱で軽めの土魔法を発動。小さな泥弾を幾つも生成すると、リゼめがけてペチペチと速射でやり返した。
「きゃっ!? な、なにすんのよバカ小輔ぇっ!」
言い返す隙すら与えず、泥弾を連打。一瞬でリゼの顔も服も体も泥だらけにしてやった。
真っ黒な泥まみれになり、わなわなと震えながらこちらを睨みつけてくるリゼ。俺は湯船の中でどや顔を浮かべ、満足気に告げた。
「ほら見ろリゼ、風呂に入らないと泥は綺麗に落ちないぞ? 明日は太川達と合流するんだから、ちゃんと風呂に入れって」
「な……ななな……っ!! 誰のせいで泥だらけになったと思ってるのよこの変態!」
リゼの怒りメーターが限界突破し、中庭に甲高い悲鳴と怒号が響き渡った。
「まあまあ落ち着けって。泥だらけのままじゃ眠れないだろ?」
カンカンに怒るリゼをよそに、泥まみれになりながらも桶の中の温かいお湯を物欲しそうに見つめている視線は逃さなかった。何だかんだこの世界には「湯船に浸かる」なんて文化はないからな。気にはなっているはずだ。
「……本当、最低な男」
リゼが口を尖らせてボソッと呟く。
「分かった分かった、ちゃんと配慮してやるよ」
俺は素裸のまま堂々と湯船から上がると、リゼからの「キャーッ! なに堂々と脱ぎ捨てて出てきてんのよ変態ッ!!」という悲痛な悲鳴をスルー。土魔法そして炎魔法を器用に同時展開した。
中庭の少し離れた場所に、俺のやつよりも一回り大きくて立派な桶を用意した。水を張り、土台の枝に薪をくべて一気にお湯を沸かす。
さらに、リゼが「見えたら殺す」と言わんばかりの殺気を飛ばしてうるさいので、二つの桶の間に土魔法で分厚いの仕切り(パーテーション)まで丁寧に作り上げてやった。
「はい完成! これで覗くことも覗かれることもない完全プライベート空間だ。見えないように仕切りまで作ってあげたんだから、感謝して入ってくれよな」
仕切りの向こう側から、少し沈黙した後に「……あんた、風呂を作る前に服着なさいよ」と呆れ混じりの、でもどこか嬉しそうなリゼの声が返ってきた。
衣類が擦れる音と、バシャリとお湯が跳ねる音が響く。
「……あ、あったかい……。なにこれ、すごく気持ちいい……」
仕切りの向こうから漏れ聞こえるリゼのホッとしたような声。
「だろ? 風呂ってのはな、身体の疲れを一気に吹き飛ばしてくれる最高の文化なんだよ」
俺は自分側の湯船に再び浸かり、熱いお湯に身を委ねた。
リゼが気もちよさそうに入浴している気配を感じながら、俺はしっかりと目を開けて天井の夜空を仰ぐ。
泥投げで身体を動かし、温かいお湯で覚醒し、リゼとの会話で脳を刺激する。
これで第一関門の夜はなんとか越えられそうだ。
(よし……明日の0時まで、絶対乗り切ってみせる……!)
しばらくして俺は風呂から上がり、服に着替えた。
パーテーションで仕切られているとはいえ、あの板一枚のすぐ裏には、リゼが裸で湯船に浸かっているのだ。
……うん、実にいい。これは男としての邪心などではなく、異世界の文化や生態を観察するための極めて純粋な「知的好奇心」だ。決して悪いことではない。学術的探求心というやつだ。
俺は自説に深くうなずきながら、忍び足でパーテーションの端へと歩み寄り、そっと横から覗き込もうとした。
——が。
「……何しようとしてんの?」
すでに湯から上がっていたリゼが、布一枚で体を隠しながら、般若のような顔で仁王立ちしていた。
バッシィィィンッッ!!!
夜の中庭に、あまりにも鮮やかで快いビンタの音が響き渡った。
激しい痛みのショックと怒涛の修羅場のおかげで、脳内のアドレナリンは完全臨界を突破。猛烈だった睡魔など影も形もなく吹き飛び、俺が今夜寝落ちすることは微塵もなくなったのだった。




