三十六話 睡眠はいらない!
ハッと意識が浮上し、ぼやけた視界の中でリングの天井が目に飛び込んできた。
冷や汗をびっしょりかいて、咄嗟に斬られたはずの腹を触る。
(……あれ? 血が出てない……?)
傷一つない。それどころか、折れたはずの二本の短剣も元通りの姿で転がっていた。
どういうことだ? 確かに俺は斬られて、腹から血を流して倒れたはず——
「ふん、なかなかタフな奴だな」
不思議そうに体を起こす俺を見下ろし、フォムが神々しく光る刃をカチリと鞘へ収めた。
「俺の光る剣を凝視した者は、深手を負って死んだ錯覚に陥り、そのまま気絶する。貴様の受けた『一太刀』は、俺の見せた幻影に過ぎん」
『出たぁぁぁッ! 流石は無血のチャンピオン! 今までの37戦、一度たりとも血を流さず勝利し続ける男だぁぁーッ!!』
実況の咆哮に合わせ、会場を物理的に揺らすほどの爆発的な大歓声が巻き起こる。
観客席へ視線をやると、今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめるリゼと目が合った。心底心配してくれていたのが痛いくらい伝わってくる。
(あんな顔させといて、このまま負けられるかよ……!)
覚悟を決め、おぼつかない足取りでぐっと踏みしめながらリングの上に立ち上がった。
「ほう……まだ立つか。やめておいた方が身のためだぞ? 今度こそ本当に斬り捨て、その不吉な血を流すことになる」
フォムが不快そうに眉をひそめ、再び剣の柄に手をかける。
俺は折れていない短剣を構え直し、マスクの奥で口角を吊り上げた。
「……それはどうかな。あいにく俺は無宗教なもんでね。お前の自慢の『加護』なんて胡散臭い代物、大嫌いなんだよ。理屈が通る魔法の方がよっぽどメリットも理解できるし、何より——強いね」
煽り返しながら、俺は一気に全神経を研ぎ澄ませた。
頭に思い浮かべるのは、あの1週間の特訓。
太川の記憶を犠牲にして威力を底上げした、あのふざけた、だが破格の威力を誇る新魔法のイメージだ。太川を参考に考えた魔法。
俺が他の魔術師と一線を画している最大の理由——それは、これまでずっと続けてきた「30分睡眠」にある。
ただの睡眠不足ではない。俺の30分睡眠は、人間の極限まで質を高め切った超効率の休息だ。これによって蓄積された膨大な魔力量こそが俺の強さの源泉。
そして、この魔法の代償は——今夜限りの『徹夜』だ。
日常的に完璧な30分睡眠を繰り返してきた俺が、今夜だけその周期を完全に破る。
それによって生じる膨大な負荷とエネルギーのギャップを魔力へ変換するのだ。
その倍率は10倍……いや、20倍!!
(ただし……もし今夜、1秒でも寝落ちしてオールに失敗すれば、対価として悪魔に命を奪われる……!)
まさに二度と後戻りのできない、命を賭した諸刃の剣。
太川の記憶を代償に得たヒントと、俺の社畜的限界突破の睡眠理論が融合した、文字通りの最終奥義だ。
「……何をしている? 虚勢を張っても無駄だと言っているのが分からんのか」
フォムが不快そうに光る剣を構え直す。
(読めよフォム。俺の思考を好きなだけ読み取ってみろ)
俺は全身の魔力を限界まで練り上げ、低く力強い声で呪文を紡ぎ始めた。
「悪魔【スリープレス】——無眠と狂気を司る者よ、今夜の休息を贄とし、限界の底力を解き放て! 名は峰小輔!」
ドーーンッ……!!
リング全体が激しく揺れ、俺の身体から爆発した魔力が嵐となって吹き荒れた。
「な、なんだこの魔力は……!? 思考を読んでいるはずなのに、理解が……処理が追いつかん!?」
フォムの余裕に満ちていた顔が、初めて恐怖で引きつる。
20倍に跳ね上がった魔力の圧に、神々しく光っていたはずのフォムの剣がみしみしと悲鳴を上げ始めた。
(読めるだろ、フォム? 俺がどこを狙うか、どう動くか……全部お前にはお見通しだ)
俺は地面を力強く蹴り飛ばすと、思考読みなど完全に置き去りにする圧倒的な質量と速度で、フォムの懐へと一気に肉薄した。
(だがな——分かってても防げねえんだよッ!!)
一気にフォムの眼前まで接近する。手にした短剣には、黒くドロリとした禍々しいオーラの魔力が渦巻いていた。
この20倍の魔力量となった俺の状態——『オールモード』。
この領域に達した俺なら、本来なら魔界の魔王すら召喚・儀式を必要とするレベルの極大魔法すら、完全な無詠唱で踏み倒して発動できる。
「な、なんだその技は……っ! 読めっ、読めない、理解でき——」
パニックを起こしたフォムが剣を振り下ろそうとした瞬間、俺は禍々しいオーラを纏った短剣を、一閃。フォムの身体へ滑らせるように切りつけた。
——その直後、あり得ない現象が起きた。
「が……え……? な、身体が……っ!?」
斬られた場所から、フォムの身体がみるみるうちに干からび、風化したように急速に痩せ細っていく。肉も、骨も、纏っていた神々しい光すらも——存在そのものが削ぎ落とされていく。
悲鳴を上げる猶予すら与えられず、ほんの数秒のうちにフォムの姿は完全に消滅し、ただの空間へと戻っていた。痕跡すら残さずに。
「…………」
静まり返るリングの上で、俺は自分の手元にある短剣を見つめて、そっと背筋に冷たいものを感じた。
(……マジかよ。理解不能すぎて自分でも怖いぞ、この魔法……)
ただ短剣を一振りしただけで、無血の王者と呼ばれた男をこの世界から完全に消し去ってしまう。魔王級魔法の恐ろしさを、身をもって知った瞬間だった。実況をはじめ、場内を埋め尽くしていた万の観客が、まるで水を打ったように静まり返った。
一度は王者の幻術によって勝負が決したと思われた試合。歓声を上げていた観客も、ハイテンションで叫び続けていた実況も、あまりに一瞬で、あまりに常識外れな結末に開いた口が塞がらないでいる。
リングの上には、影も形もなく消え去ったフォム・エンゲルの姿と、ポツンと立つ俺だけ。
『あ……あ、あ……ッ!?』
マイク越しに、実況の狼狽した声が漏れ出た。
『消……消えたぁぁぁーーーッ!? 絶対王者フォム・エンゲル、存在ごと消滅ッ!! 勝者——ティガーマスクぅぅぅーーーッ!!』
ワンテンポ遅れて爆発した地鳴りのような叫び声が、アリーナ全体を物理的に激震させた。怒号と歓声、そして困惑が入り混じる狂乱の渦。
(ふぅ……勝った、のか……?)
禍々しい魔力を収め、俺はハッと正気に戻って観客席へと視線を向けた。
そこには、涙目を拭いながら、呆然と俺を見つめるリゼの姿があった。無事だと分かった安心感からか、今にもへたり込みそうな顔をしている。
(よし、一安心……って、待てよ?)
安堵したのも束の間、俺の脳裏に凄まじい勢いで「あの条件」がフラッシュバックした。
(やべえぞ……勝ったのはいいが、俺は今夜、絶対にオールしなきゃ死ぬんだ……!!)
試合に勝った達成感など一瞬で吹き飛び、俺の背中にドッと冷や汗が吹き出した。魔王の魔法よりも恐ろしい「睡魔」との、命を懸けた本当の戦いが今始まったのだ。




