三十五話 睡眠はチャンピオン
チャンピオンとの戦いまでの1週間は、低須の謝罪のおかげで孤児院に泊まらせてもらった。人形使いの一件は、全て太川のせいにしておいた。おかげでリゼと共に1週間泊まれるし、存分にチャンピオン対策ができる。
「なんとか泊まるところを探せてよかったわね、小輔。もう少しでホームレス生活になるところだったわよ」
リゼは逃走の疲れか、すぐにベッドに入ってしまった。また同じ部屋か。嬉しいんだけど、超えてはいけない一線が常に横にあると落ち着かない。俺にはエリカがいるんだと固い意志を再確認し、外で魔法の特訓をした。
そして迎えた決戦の日。
リングに入場すると、地下格闘場を揺らすほどの、今までにない大歓声が響き渡たる。
「赤コーナー彗星のごとく現れた正体不明の覆面闘士——ティガーマスクッ!!」
実況の威勢のいいコールが場内に響く。
「青コーナーこの地下アリーナの絶対王者! 天使に愛された男——フォム・エンゲルッ!!」
実況が叫んだ瞬間、地鳴りのような歓声が巻き起こった。俺の時の歓声とは、レベルどころか次元が違う。観客席が物理的に揺れているんじゃないかと思えるほどの熱狂だ。
「フォム! フォム! フォム!」
熱狂する観客のコールを背にしてリングへ上がってきたのは、どこか神秘的な雰囲気を纏った男だった。
「クックック……不快な面だな。俺が直々にそのマスクを剥ぎ取ってやるよ」
フォム・エンゲルは優雅に髪をかき上げると、冷たさを孕んだ瞳で俺を見下ろした。
「噂は聞いているぞ。お前は悪魔の力——『無詠唱魔法』を使うそうだな。だが、聖獣クイヤに愛されない不吉な奴ほど、そうやって邪道な魔法に頼るものだ。俺には聖獣クイヤの尊い加護がある。悪魔の悪あがきが、どこまで通用するか試してみるか?」
自信満々に語る王者に、俺はマスクの中で密かに眉をひそめた。要するに「自分は選ばれた存在で、お前の魔法は邪道だ」と言いたいらしい。
「悪魔ねぇ……ずいぶん大層な名指しだな。その自慢の『加護』とやらが、俺の特訓の成果に耐えられるかどうか……試してみようじゃねえか」
俺は不敵に口角を上げると、低く身構えた。
俺は腰から短剣を抜き放つと、低く腰を落として構えた。
(まずは顔面に向けて炎魔法を放ち、一気に距離を詰める……!)
作戦決定と同時に、短剣の刃から魔法陣を展開。一切の詠唱を挟まず、チャンピオンの顔面めがけて豪快な火炎を放った。
——勝機! そう思った瞬間、フォムは億劫そうに腰の剣を抜き、流れるような動作で炎を易々と叩き落とした。
「なに……!?」
間髪入れず、煙で奴の視界が塞がった隙を狙って土魔法を無詠唱で展開する。土魔法がフォムの足元を襲うが——それすらも、あらかじめ知っていたかのように完璧な軌道で防がれた。
フォムの掲げる剣が、神々しい白銀の光を放っている。
(くそっ、なんでだ……!?)
炎も、土も、奇襲も、畳みかける手が全て読まれて防がれる。俺の猛攻が、何ひとつとしてかすりもしない。焦りで背中に嫌な汗が伝う。
(なぜだ? なぜ俺の手が全て読める……!?)
ハッとして息を飲んだ俺に対し、フォムは優越感に満ちた笑みを浮かべ、余裕たっぷりに肩をすくめた。
「クックック……なぜお前の攻撃が全て通じないか分かるか、ティガーマスク?」
フォムは光る剣をかるがると構え直し、嘲笑うような視線を向けてくる。
「俺はクイヤの加護を受け、お前の思考を全て手に取るように読み取ることができるのだ。所詮、悪魔の力に頼る者などその程度よ」
「もう攻撃は終わりか? つまらない奴だな」
フォムは心底退屈そうに息を吐くと、哀れむような目で俺を見下ろした。
「最近増えてきたんだよ、少し魔法が使える程度で調子に乗り、軽い気持ちでこの地下格闘大会に乗り込んでくる奴がな。お前のような雑魚は見せしめに消えるべきなんだよ。悪魔の力に頼る愚か者めが」
言い終わるか否か——フォムの姿が消えた。
(……ッ、速——!)
神々しい光を纏った剣が、視界を置き去りにする速度で肉薄してくる。
かろうじて捉えた微かな剣筋に対し、俺は交差させた二つの短剣を無夢中で突き出した。
ガキィィィンッ!!
鼓膜を突き破るような金属音がリングに響き渡る。
腕を痺れさせる凄まじい衝撃。直後、みしみしと悲鳴を上げた左手の短剣が、脆くも真っ二つに砕け散った。
「くっ……!」
間一髪、火花を散らす刃を滑らせるようにして、俺は後ろへ大きく跳び退いた。
息を荒らしながらフォムと距離を取る。手元に残ったのは、刃半ばで折れた一本の短剣だけだった。
呼吸を整える暇すら与えられず、再び光る刃が死角から襲いかかる。
俺は残された一本の短剣で必死にしがみつくように対応したが——澄んだ金属音と共に、最後の短剣までもが無残に砕け散った。
(くそっ……カイロからもらった大事な剣だったのに……!)
両手の武器を失い、完全に素手になった俺を前に、フォムは嗜虐的な笑みを深める。
(……だがな、思考を読まれたからって諦めると思うなよ。考えが読めても意味がないってことは、俺が一番よく知ってるんだ)
頭に浮かぶのは、かつてのブラック企業時代。どれだけ上司の理不尽な思考や機嫌を完璧に読み取ったところで、圧倒的な力の前では何の対策にもならず、何度も打ちのめされてきた。
思考が読めることと、それを防ぎきれるかは別問題だ。
(だけど……近づかれたら一瞬で斬られる。どうする? このまま無様に降参するか……!?)
うじうじと考えが巡る。牽制のために無詠唱魔法を放って距離を取ろうと考えた——その瞬間だった。
ドガッ……!!
猛烈な衝撃と共に視界が天地逆転し、地面が落ちてきた。
いや、違う。俺の頭が、凄まじい力でリングの床へ叩きつけられたのだ。
「が、は……ッ!?」
気づいた時には、腹部に鋭い熱さが走っていた。深々と一太刀を叩き込まれていたのだ。
ダラリと床を赤く染めていく血。視界が急速に明度を失っていく。
「やめてぇぇぇッ!! 小輔ぇぇぇッ!!」
観客席のどこかから、金切り声のようなリゼの叫び声が響き渡った。
いつもは強がってばかりのあいつが、聞いたこともないような悲壮な声を張り上げている。
(あれ……? 死ぬのか、俺……? まだ……何も成し遂げてないのに……)
見上げれば、フォムはゴミ屑でも見るようなくだらない目で俺を見下ろしていた。実況の興奮した怒号と観客の狂乱した大歓声が、遠い世界の出来事のように脳裏に響いていた
(……はは、格好悪いな……)
溢れ出す血で冷たくなっていく体を抱え、俺は天井の眩しい照明をぼんやりと見つめた。
(エリカの笑顔……もう一度、見たかったな。すまん、エリカ……約束、破りそうだ……)
約束を果たせない申し訳なさと、愛おしい人の顔が脳裏をよぎる。
そして、今も観客席のどこかで叫び続けている少女の存在。
(リゼにも……こんな無様な姿、見せたくなかったなぁ……)
守る側でいたかった。格好いい男でいたかった。
いつだって憎まれ口を叩き合いながらも、自分を信じて隣にいてくれたリゼに、こんな血みどろで倒れる無力な姿を見せるなんて、最低だ。
「フン、所詮は悪魔の力に溺れた不吉な虫ケラよ。クイヤの神聖なるリングを汚すな」
上から投げかけられるフォムの冷酷な嘲笑。
実況のハイテンションなアナウンスと、他人の死をエンタメとして楽しむ観客たちの醜い歓声を聞きながら意識が遠のいていった。




