二話 睡眠は毒
俺はドアの小窓に顔を近づけ、この一週間で完璧に頭へ叩き込んだ異世界語を口にした。
「看守さん、隣の部屋には誰が入ってるんだ?」
……伝わってるかな?
独学の発音に対する不安が脳裏をよぎる。カタカナ記号を頼りにシミュレーションは繰り返したが、生の会話はこれが初めてだ。
小窓の向こうで、看守は一瞬だけ目を見開いて驚いた表情を見せたが、すぐに何事もなかったかのように顔を背けた。
……無視された。
まあいい、伝わっているのならそれで十分だ。
この石で作られた牢屋は何部屋か並んでおり、俺はその一番奥に通されている。そしてこの一週間の三日目あたりからだろうか、隣の部屋に誰かが追加されたらしく、かすかな物音が聞こえてくるようになっていた。
気になるところだ。およそ二十冊の本を読んだ結果として分かったことがある。
ここは、間違いなく異世界だ。そして俺はおそらく、召喚されたのだろう。
あの日本語訳を残してくれた者を、仮に『先人』と呼ぶことにする。先人自身の情報は本に特に書かれていなかったが、文字や発音、文化、そしてこの世界の概略を正確に遺してくれていた。
その中で一番興奮した知識は、この世界では『魔法』が使えるという点だ。
この世界の魔術師は、自身の魔力量によって展開できる魔法陣の大きさと質が決まる。そして魔界から悪魔を魔法陣に召喚し、契約を結ぶことで初めて魔法を発動させるのが一連の流れらしい。
そして、俺がこの『ファング王国』に召喚された理由も大体察しがついた。軍事力の強化だ。
本に記されていた記録によると、この国では半年に一回ほどのペースで禁忌とされる「他界召喚」を密かに行っているらしい。時が来れば俺も魔力量を測定され、もし才能があれば徹底的な訓練を受けて軍に組み込まれる。なんで、人一人を軍に編入するためにこんなコスパが悪そうな召喚をしているのだろう。
あと、この一週間なにも干渉されていないのはなぜか?
もし魔力量を測定して、その数値が壊滅的に少なかったらどうなるんだろう?
……疑問は山ほどあるが、どっちみちこの頑丈な石の部屋から出られない以上、今すぐ答えを出せるわけでもない。
「というか……俺、こんな異常事態をあっさり受け入れすぎだろ」
ふと、自分でもおかしくなってきた。
普通なら「元の世界に帰せ!」と叫んで泣き叫ぶ場面だ。しかし俺には、かつていた世界に対する未練というものが一微塵も存在しなかった。家族もいなければ恋人もいない。あったのは毎日現場と会社を往復し、サウナのようなプレハブで泊まり込む過酷な日々だけだ。
拘束されているとはいえ、一日三食(粘土みたいな灰色塊だが)が出てきて、本を読み放題で、三十分睡眠のルーティーンを誰にも邪魔されない。
「ブラック現場から比べたら、ここ、実質ホワイト環境なんじゃないか……?」今頃、会社では俺が無断欠席したことで現場の工程がストップし、上司が電話口で顔を真っ赤にしてブチギレているのだろうか。現場監督が飛んだ(失踪した)となれば、現場は大惨事だ。
「まあ、知ったこっちゃないか。」
そろそろ眠くなってきた。
時計がないので三十分かどうか正確にはわからないが、この十年間叩き込んできた身体感覚だ。誤差なく三十分ぴったりだと断言できる。
……そういえば、この世界に来てからというもの、睡魔の質があきらかに変だ。
現実世界にいた頃よりも、睡魔が圧倒的に来なくなっている。落ちる限界の直前まで、脳がクリアなまま一切の眠気を感じないのだ。
気になって試しに昼寝を試みようとしたことがあったが、まったく寝つけない。それどころか、奇跡的に意識が落ちかけた瞬間——誰かに心臓を強く握り潰されたような、酷い圧迫感と悪寒に襲われて跳ね起きた。
(睡眠そのものが、この身体にとって毒に変わっている……?)
この世界の環境によるものか、あるいは召喚の術式が俺の身体に施した謎の変質か。
理由は不明だが、一日二十三時間三十分をフル稼働できる俺の体質が、この異世界においてさらに過激化していることだけは確かだった。睡眠が毒に…




