十九話 睡眠は低須枝弥
「すみません、あなたのお名前は何とお呼びしたらいいですか?」
低須は額の汗を拭いながら、どこか丁寧な口調で尋ねてきた。
「……峰小輔だ」
俺がそう答えると、中年は「なるほど」と深く頷き、納得したように眼鏡の位置を直した。
「あなたも召喚者なのですね」
「……っ!? なぜそれを……!?」
俺が目を見張ると、中年はフッと穏やかな笑みを浮かべ、淡々とした調子で解説を始めた。
「いやね、『峰』も『小輔』も、この世界には存在しない名前の音韻構造なんですよね。それに僕もチバ王国にいた頃、あなたと同じような日本の名前を持つ召喚者を何人か見たことがあるんです。まあ、要するに僕から見れば一目瞭然ってわけなんですよね」
中年の言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
チバ王国には、自分以外の「召喚者」たちがいる——?
「そのチバ王国ってどこですか?」
心の中で(チバ……まさか、あの千葉なのか……?)と戸惑いながら尋ねた。
正面の鉄格子からひょっこり顔を出している中年男性は、汗を拭いながら、どこか穏やかで独特なテンポで答え始めた。
「ファング王国の隣にありましてね。あそこは『はじまりの契約の聖地』として知られているんですよね。まあ要するに、クイヤの国と言ってもいいわけなんです、はい」
マジか……クイヤの国。
エリカを失った悲しみにもっと浸らないと、エリカへの愛が嘘になりそうだと思った。だが、もう迷ってはいけない。クイヤを見つけて、必ずエリカを生き返らせないと。あの笑顔を取り戻さなければ、俺の人生、何のためにこの世界に生まれてきたんだ。
まだ可能性があるだけ希望がある。落ち着いて立て直そう。
現状、鉄格子の牢屋に入れられているが、拘束具の類は何も付けられていない。
魔法で脱出できるか思考を張り巡らせる。魔法で壊した後はどうする? このフロアは地下で、出口には二つの階段がある。どちらにも警備がいるはずだ。
ふと自分の身体に意識を向けると、俺を牢屋にぶち込んだ兵士たちは、俺の太ももについている短剣に気づかなかったらしい。服でうまく隠れている。
(あいつらバカか……? 逆に武器なしで、どうやって俺がエリカを殺したと罪をなすりつけるつもりなんだよ)
逃げたら、間違いなくファング王国で指名手配されるだろう。俺は今まで城から出たことがなく、この世界の常識が乏しい。チバ王国への行き方もわからない。
どうすべきかと思考を巡らせていた、その時だった。
「あのー……聞いています? 僕はですね、元々チバ王国にいたので、案内をすることは可能なんですよね。だから僕をこの鉄格子から出してさえもらえれば、チバまで案内してあげてもいいですよ? ……どうします?」
向かいの鉄格子から、あの中年が眼鏡の位置を指で直しながら、実に淡々とした口調で提案してきた。
(案内人が手に入るのは助かる……が)
冷静に観察すると、この鉄格子は単純な魔法の衝撃波だけで吹き飛ばすのは意外と難しそうだ。
(よかった……太ももに短剣が残っていて。炎の魔力をこの短剣に極限まで込めながら切れば、いけるか……? いや、やってみるしかない)
俺は服の裾から静かに短剣を引き抜き、柄を固く握りしめた。
「それだけで、なぜ俺を案内してくれる?」
俺は短剣を握りしめたまま、鋭い視線を正面の鉄格子に向けた。
少し怪しい。ここで安易に信じて助け出しても、外に出た途端に裏切られる可能性だってゼロじゃない。
すると、向かいの中年は全く動じる様子もなく、困り眉で優しげな笑みを浮かべた。
「いやね、僕の育て親が実は召喚者でありましてね。小輔さんを見てると、その育て親と顔がどことなく似ていて、勝手に親近感を抱いちゃってるだけなんですよね」
「……顔が似てる?」
「そうなんです。それに、もしよろしければチバ王国でその育て親と会っていただけたら嬉しいな、なんて個人的には思っているわけなんです。だから裏切るとかそういうのは一切なくて、純粋にお互い利害が一致してるんじゃないかなと思うんですよね、はい」淡々と、しかし動画解説でもしているかのような落ち着いたトーンで語る男。
(嘘をついているような雰囲気じゃない……それに、チバ王国で召喚者の育て親に会えるなら、俺にとってもプラスだ)
怪しさは拭いきれないが、背に腹は代えられない。
「……わかった。信用する」
「名前はなんていう?」
俺が尋ねると、向かいの中年男性はふんっと胸筋にクッと力を入れ、誇らしげに答えた。
「低須枝弥と言います」
……何だよ、名前が日本人だろこれ。完全に日本語の語感そのままだ。
俺が呆気にとられていると、低須はどこか楽しそうにニコニコしながら言った。
「よく名前がおかしいと言われるんですが、気にしないでくださいね。僕の育て親がつけた名前なんですよ。あ、でも小輔さんも召喚者なら、特に違和感もないかもしれませんけどね、はい」
(いや、違和感しかないだろ……)
とツッコミたくなったが、今はそんなことを言っている場合じゃない。とりあえず俺たちは、ここからの脱出計画を立てることにした。
それにしても……なんでこんな状況で優雅に話し合っていられるんだよ、牢屋だぞここ?
俺が疑問を口にすると、低須は「ああ、それはですね」と解説を始めてくれた。なんでもこの階層の牢屋は、比較的罪が軽い者や、俺のような容疑者段階の人間を一時的に謹慎させておく場所らしい。もし正式に処刑が決まれば、もっと重厳重な地下深くの拷問牢へ移動させられるとのことだった。
(脱出するなら、間違いなく今だ……!)
話し合った結果、脱出は今夜決行することに決まった。夜なら兵士の巡回も少なく、人もまばらになる。
階段を上り、昼間エリカが殺されたあの通路を通って外へ出るのが一番確実らしい。そこから一気に城下町へ下り、町を抜ける川を渡って裏の森へ逃げ込めば、ひとまずは追手を撒けるというのが低須の立てたルートだ。
脱出時刻は、今日の夜23時に決定した。
……ちなみに、なぜそんな時間がわかるかというと、低須がなぜか懐中時計を持っていたからだ。なんであいつの牢屋だけ、ベンチプレスのセットやら時計やら、私物の持ち込みが大量に許されてるんだろ……?
「まあ、時間まで少し身体をほぐしておくといいですよ。筋温を上げておくと初期のダッシュで肉離れしにくくなりますからね」
低須は相変わらず自分のペースを崩さず、軽くストレッチを始めている。
(……まあいい。正直、今日の夜の脱出計画は甘いような気もする。だが、外の情勢も警備の配置も情報が少なすぎる以上、今の俺たちには行き当たりばったりで突っ込むしか選択肢がない)
俺は壁に背を預け、太ももの短剣の感触を確かめながら、静かに23時の訪れを待つことにした。
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