十八話 睡眠は鉄格子
一夜が明けた。
牢屋の隙間から差し込む薄暗い光が、俺の冷え切った足を照らしている。
昨日、フィンが去った直後は血が逆流するほどの怒りに狂っていたはずだった。あいつを殺してやる、絶対に許さない、と。
だが、夜が明け、静寂が地下牢を支配するにつれて、俺の中で燃え盛っていた炎は急激に鎮火していった。
怒りの後にやってきたのは、果てしない「無」だった。
(……もう、いいかな)
膝を抱えたまま、俺は虚ろな目で鉄格子を見つめた。
あいつを倒したところで、エリカが戻ってくるわけじゃない。
この世界に来て、エリカの笑顔が見たくて、彼女の役に立ちたくて必死に生きてきた。ドジで現場仕事でも怒られてばかりだった俺を、ただ一人受け入れてくれたエリカ。
そのエリカがもういないなら、俺がこの世界で生きている意味なんて、最初からどこにもなかったんだ。
処刑されるなら、それでいい。
このまま何も抗わず、目を閉じれば、エリカのいる場所へ行けるのかもしれない。
もう争うのも、苦しむのも、全部疲れてしまった。
「……はは、全部……どうでもいいや……」
乾いた笑いが口から漏れた。俺は静かに壁に頭を預け、死を待つように目を閉じかけた。
——その時だった。
『……こ、う……すけ……さん……』
耳の奥で、風の音に混じって、あの最後の声が蘇った。
血を吐きながら、冷たくなっていく手で俺の頬に触れようとしていた、エリカの最後の笑顔。
『私……小輔さんを……愛してる……っ』
『クイヤに……感謝しなくちゃ……』
(……エリカ……)
目を閉じると、鮮明に思い出される。
あいつは死ぬ間際まで、自分の苦しみよりも俺への愛を口にしていた。そして、最後に遺した「クイヤ」という言葉。
もし俺がここで投げ出したら。
フィンの思い通りに冤罪を着せられ、惨めに処刑されて死んだら——。
エリカが命を懸けて俺に託した「最期の言葉」は、一生誰にも届かず、闇に葬られることになる。
あいつの死が、あんな奴のくだらない野心のための「無駄死に」で終わってしまう。
(……それでいいのか、俺……?)
ぎち、と手に力が入った。
冷え切っていた胸の奥底で、灰の中に埋もれていた小さな種火が、静かに、けれど確実に熱を持ち始める。
「……冗談じゃない」
俺は床に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
俺自身の命なんて、もうどうなったっていい。
だが——エリカの想いまで踏みにじらせてたまるか。
あんな奴のくだらない野心と陰謀のためにエリカは殺され、俺は濡れ衣を着せられて処刑される。エリカが最期に遺した言葉も、笑顔も、全部闇に葬られる。
そんな理不尽を認めてたまるかよ。
「……クイヤ」
口の中で、その名前を呟く。
クイヤに会おう。そして、俺の願いを叶えてもらうんだ。「クイヤよ……願いくらい、叶えてもらわなきゃ筋が通らねえだろ……ッ!!」
怒りと執念を爆発させ、思わず大声で吐き捨てた——その時だった。
「あの〜……静かにしてもらっていいですか?」
突如、廊下を挟んだ正面の鉄格子からひょっこりと顔を出してきた中年の男性が、眉をひそめながら言ってきた。
「っ……!? 誰だ……!?」
俺は急激に魔力を収束させ、警戒して身構えた。
暗がりの中でそのおじさんの顔をよく見ると、見覚えがあった。
……そうだ。俺が最初にこの地下牢に叩き込まれた時、部屋の隅で丸太みたいな重い鉄格子を担いで、ひたすらベンチプレスを繰り返していた謎の囚人だ。
おじさんはタオルで汗を拭きながら、どこか穏やかで独特なテンポで話し始めた。
「いやね、今ちょうど大胸筋の追い込みのセット中だったんですよね。で、筋肉っていうのは筋繊維を破壊して超回復させる過程が一番大事なんですけど、急に大声出されるとアドレナリンの出方が変わっちゃって集中が切れちゃうんですよね。牢屋でも最低限のマナーっていうのは守った方がいいと思いますね、はい」
「……は? 筋肉……?」
シリアスな雰囲気が一瞬で粉々になった。
エリカを失った絶望と、フィンへの激怒で狂いそうだった俺の思考が、目の前のおじさんの独特な語り口調のせいで完全にフリーズした。
「……お前、なんでそんな悠々と筋トレなんてしてんだよ……ここ牢屋だぞ……?」
「まあ暇だからっていうのもありますけど、要するに運動不足はメンタルにも良くないんですよね。で、僕が気になったのはそこじゃなくて、お兄さん今『クイヤ』って言いましたよね?」
おじさんは鉄格子に肘を預け、眼鏡の奥の目を少し細めてこちらを見つめてきた。




