十三話 睡眠はクイヤ
「あとで、私の部屋に来てほしいの」
夕方の訓練が終わったあと、エリカから耳元でそう囁かれた俺の心臓は、それからずっと跳ね上がりっぱなしだった。
夜。人目が途絶えた城の回廊を、俺は忍び足でコソコソと進んでいた。
(やばいやばいやばい……! 夜に女の子の部屋に呼ばれるとか、何のフラグだよ……!? カイロ隊長や他の騎士に見つかったら一発で処刑されるぞ……!)
影から影へと隠れながら、なんとかエリカの部屋の前にたどり着く。深呼吸を一つ挟み、緊張で湿った手でコンコンと控えめにノックした。
『はーい』
中から可憐な返事があり、俺は音を立てないようそっと扉を開けた。
「夜分遅くに——って、えええええっ!?」
足を踏み入れた瞬間、俺の思考は完全にフリーズした。
そこにいたエリカは、昼間のドレスや訓練服ではなく——シルクのような薄い布地で作られた寝巻き姿だったのだ。
いつもはカチッとした服で隠れていた胸のラインが、やわらかな生地越しにやけに強調されている。胸元の開いた首元や、チラリと覗く華奢な鎖骨に、俺の目は釘付けになった。
(だ、大丈夫か俺の理性……っ!? )
理性のタガが外れそうになり、大慌てで視線を天井へ泳がせる俺。
そんな俺の動揺には全く気づいていない様子で、エリカは真剣そのものの、真っ直ぐな瞳で俺を見つめてきた。
「……小輔さん。夜遅くに突然呼び出してしまってごめんなさい」
「あ、いや……全然大丈夫だけど……」
「実は……小輔さんに、私のとても大切な『思い出話』を聞いてほしくて呼び出しました。……いいでしょうか?」
表情はどこまでも真面目で、切実だった。
自分の薄着に全く無自覚な彼女の純粋さと、その真剣な眼差しに、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。胸の鼓動をどうにか落ち着かせ、ベッド横の椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「……ああ、もちろんだよ。エリカの話なら、いくらでも聞く」
「ありがとうございます……」
エリカはホッとしたように小さく微笑むと、自分の膝の上でぎゅっと両手を握りしめ、ぽつり、ぽつりと語り始めたのだった。
「小輔さんは……『成獣クイヤ』のことを知っていますか?」
「せいじゅう……クイヤ?」
聞き覚えのない名前に首をひねると、エリカは少しだけ表情を和らげて膝の上の手をキュッと握り直した。
「他の国では宗教の聖書に載っていたりするんだけど、ここファング王国では古い御伽噺として伝わっているんです。おばあ様がね、昔よくベッドの中で話してくれたの」
首を振って「知らない」と答えると、エリカは遠い目をして、どこか愛おしそうにその御伽噺を語り始めてくれた。
「今から三千年前……この世界では、人間と悪魔が長い戦争を続けていました。いつまでも終わらない不毛な戦いに呆れ果てた成獣クイヤは、まず人間のリーダーである賢者に尋ねたの。『なぜ争いをやめないのか』って。すると賢者は『悪魔が襲ってくるから、身を守るために戦うしかない』と答えました」
「……ふむふむ」
「次にクイヤは、悪魔のリーダーである魔王に同じことを問いました。すると魔王はこう言ったの。『悪魔は他者の魔力を食べないと消滅してしまう。だから生きるために人間を襲うしかないのだ』と」
エリカの声が、夜の静けさに心地よく溶けていく。
「双方の言い分を聞いた成獣クイヤは、賢者と魔王をひとつの場所に呼び出し、仲介人となってある契約を結ばせました。……悪魔たちは二度と魔界から出てはならない。ただし——『人間との契約が成立している時』だけ、その力を貸すために顕現してよい、と」
「……あ」
俺は思わず声を漏らした。
「そう……それが、私たちが今使っている『魔法』の真実なんです。人間と悪魔が交わしたこの世界最初の約束——『はじまりの契約』」
「……マジかよ」
「契約を結ばれた悪魔たちは、空高く輝く『月』へと飛ばされました。そこが彼らの新しい故郷、魔界となったんです。こうして世界に平和が訪れました……っていうのが、おばあ様に教えてもらった御伽噺なんですけどね」
窓の外を見上げると、夜空には静かに月が輝いていた。
(あー……だから『夜は悪魔の時間』なんて言われてるのか……!)
魔法の仕組み、悪魔の名を呼ぶ詠唱、そして夜と月の関係。バラバラだった世界の謎が、エリカの口から紡がれる物語によって一気につながっていく。
「……その伝説の『成獣クイヤ』はね、出会うとどんな願いでもひとつだけ叶えてくれるって言われているの」
夜の静けさの中、エリカは薄い寝巻きの裾をぎゅっと握りしめ、過去の記憶をを手繰り寄せるように語り続けた。
「私、小さい頃からずっとドジばかりで……落ち込むたびに、おばあ様がいつも優しく慰めてくれたの。あのきれいな『ブルーメ』の花の魔法を見せながらね。……でも、ある時、おばあ様の持病が悪化して、もう長くないって知らされたの」
エリカの瞳に、うっすらと涙が浮かび上がる。
「私、どうしてもおばあ様に死んでほしくなくて……御伽噺に出てくるクイヤの伝説を思い出したの。クイヤに頼んで、病気を治してもらおうって。それで、執事や周りの大人たちの目を盗んで、一人で城を抜け出して探しに行ったの」
「一人で……!?」
「うん。でも、子供の足だし、見つかるわけもない……だんだん日が暮れて、魔物が出る深い森の中で迷子になっちゃって。夜になって、小さな私は魔物に襲われて……体中傷だらけでボロボロになって……」
喉を詰まらせながら、エリカは胸元に手を当てた。
「襲われながら、私、泣きながら口に出したの。『せめて……おばあ様みたいに、花の魔法だけでもできるようになりたかった……』って。……そしたらね」
「そしたら……?」
「目の前に……眩しいくらい光り輝く、成獣クイヤが現れたの。恐ろしい魔物たちも、その姿を見た瞬間に怖気づいて逃げていって……。でも、クイヤは何も言わずに、そのまま姿を消してしまったの」
エリカはぽろぽろと頬を涙で濡らしながら、切なく微笑んだ。
「おばあ様の病気を治してもらうつもりだったのに……私の弱音のせいで、願いが『花の魔法ができるようになりたい』に変わっちゃったの。……その後、捜索に来てくれたカイロ隊長に助けられて城に戻ったの。母様には酷く怒られると思ったけれど、『おばあ様の死が近いから、側にいてあげなさい』って言われて……」
息を呑む俺の前で、エリカは静かに言葉を紡ぐ。
「急いでおばあ様の部屋に駆け込んで……『見せたいものがあるの』って、必死に練習した一輪の青い花を咲かせて見せたの。……おばあ様はね、その花を見た瞬間、言葉を発する前に……優しく微笑んだまま、息を引き取ったわ」
「エリカ……」
「だからね……おばあ様がいなくなってから、私を初めて褒めてくれた人は、小輔さんなの」
涙を拭い、照れたように小さく笑うエリカ。
薄い寝巻きの胸元を優しく押さえながら、真っ直ぐな瞳で俺を見つめてきた。
「小輔さんのおかげで、諦めかけていた計算もできるようになった。落ちこぼれだった私の魔法の凄さも教えてくれた。……周りの評価もどんどん変わっていって、いま、私……前よりもずっと楽しいの」
「エリカ……」
「だから、本当に感謝しているの。小輔さんには……だからね?」
エリカは俺の傷だらけの手を、両手でそっと包み込んだ。
やわらかくて温かいそのぬくもりが、手を優しく溶かしていく。
「だから……今日みたいな怪我をする危ないことは、もう絶対にしちゃダメ。……約束よ?」
少しだけ首をかしげ、小指を差し出してくるエリカ。
瞳にはまだ涙の余韻が残っていたけれど、そこにはもう迷いはなかった。
「……ああ、約束する。無理な無茶はもうしない。……エリカを守るため以外はね」
「もう、すぐそうやって格好つけるんだから……」
ふふっと可憐に笑うエリカと、指切りを交わす。
小さく絡み合った小指から伝わる体温が、愛おしくてたまらなかった。
「もう夜遅いから寝なくちゃ」
(……え? まだ19時くらいだぞ……?)
この世界の人たちは寝るのが随分と早いな、と首をかしげる。エリカはベッドから立ち上がると、部屋の隅にある机の引き出しをガサゴソと漁り始めた。
「何を探してるの、エリカ?」
「悪魔の時間は少しでも寝ていた方がいいんだけど……私、なかなか寝付けなくて。それをフィンに相談したらね、睡眠薬をくれるようになったの。それを飲むようになってから、寝つきがすごくよくなったんだよ」
エリカは小さな薬瓶を取り出し、嬉しそうに微笑んだ。
(……待てよ?)
俺の脳裏に、強烈な違和感が走った。
腹違いの弟とはいえ、あの優秀で野心的なフィン・ファングが、わざわざ落ちこぼれの姉に親切で薬を渡すだろうか?
——その瞬間。
脳内で、バラバラだったパズルのピースが一気に組み合わさった。
(……そうか! そういうことか……ッ!!)
全てが繋がった。
俺の魔力量が異様に多い理由。それは俺が現代人として夜更かしに慣れており、毎日睡眠時間30分という超ショートスリーパー状態だったからだ。
そういえば今日、カイロ隊長と生活リズムの話をした時も、あいつは「夜警が多くて3時間くらいしか寝られない」と言っていた。
(仮説だが……『悪魔の時間』と呼ばれている夜、月からの見えないパワー(魔力)を、起きている人間は体内に纏い、溜め込んでいるんじゃないのか……!?)
そして、フィンはその事実を知っている。だからこそ夜に魔力を練り上げ、あの圧倒的な魔力量を手に入れた。
その上で——後継者争いや王位継承において、姉であるエリカを脱落させるために「睡眠薬」を与えていたんだ!
夜の時間を強制的につぶさせ、魔力の蓄積を阻止する。それどころか、この薬の副作用のせいでエリカは頭がぼーっとし、計算ミス(ドジ)や魔法の暴走を引き起こしていたんじゃないのか……!?
(あの野郎……どこまで陰湿なんだ……ッ!)
ゾッとするような怒りが、お腹の底から湧き上がってくる。
エリカは「自分はドジで落ちこぼれだ」と自分を責め続けていたのに、全てはあの王子が仕組んだ毒だったのだ。
「エリカ、待て!」
俺は素早く立ち上がると、薬を口に運ぼうとしていたエリカの手首を、強く、でも優しく掴んで止めた。
「え……? 小輔さん……?」
「その薬……今すぐ飲むのをやめろ」
「えっ……? でも、これがないと寝付けなくて……」
目を丸くして驚くエリカに、俺は真剣そのものの瞳で訴えかけた。
「いいから、俺の言うことを信じてくれ。エリカがドジを踏んだり、魔法がうまく使えなかったりしたのは……お前のせいじゃない。全部、この薬のせいだったんだ」
「え……っ……!?」
絶句するエリカの手から薬瓶をそっと取り上げる。




