九話 睡眠はイチャイチャ
治療室のドアを開けると、ほんのりと甘い香りが漂ってきた。
部屋の奥、朝日が差し込むベッドの上に、エリカがちょこんと座っていた。
……なんてエンジェルなんだろう。
尊すぎる。これだけで異世界に来た価値がある。もう現世に未練はない。
「おはようエリカ、体調は良くなったか?」
俺の声に気づいたエリカは、ぱぁっと花が咲くような笑顔を向けた。
「おはようございます、小輔様! おかげさまで、すっかり元気になりました! 聞きましたよ、小輔様が私の護衛になってくださったって。約束、守ってくれたんですね!」
嬉しそうに胸の前で手を合わせるエリカ。その健気な姿に、朝の地獄の基礎訓練でバキバキになった全身の筋肉痛が吹き飛んでいくような気がした。
「ああ、カイロから朝食の給仕から護衛に付けって言われてさ。」
この国では朝食は各々の部屋で食べる文化らしい。しばらくすると、治療室に一人分の豪華な食事が運ばれてきた。
すると、料理を置いたメイドに向けてエリカが声をかける。
「小輔様の分も持ってきてちょうだい」
若いメイドは「えっ」と驚いたように目を丸くしたが、すぐに「……かしこまりました」と深々と一礼して部屋を出ていった。
「いいのかよ。俺とエリカじゃ一応身分も違うし、本来こういうのって毒味役とか俺がするんじゃないのか?」申し訳なさそうに尋ねる俺に、エリカはふんと大きな胸を小さく張って見せた。
「いいんですよ。私が一緒に食べたいって決めたんですから。……これは姫としての命令です!」
照れくさそうに、けれど少し強気に言い切るエリカ。その真っ直ぐな瞳に、俺は思わず苦笑しながら「了解、姫様」と降参のポーズを取った。
運ばれてきた朝食は、焼き立てのパンと温かいスープ、それに新鮮な果物だった。
……どこぞの粘土みたいな謎の異世界飯じゃなくて本当に安心した。
「おいしいですね、小輔様!」
モグモグと口を動かしながら嬉しそうにするエリカ。なんだろう、食べている最中もいちいち動作が可愛い。もはや見ていて飽きないレベルだ。
食事の途中、俺がいた元の世界の話をしてみると、エリカは目を輝かせて興味津々に耳を傾けてくれた。その素直な反応があまりに愛おしくなった俺は、ちょっとした意悪——いや、試みを思いつく。
「へぇ、小輔様の世界はそんなにすごい建物がたくさんあるんですね……!」
「まあな。あ、そうそう、エリカ。俺の世界では、頑張った目上の人を敬うために『あーん』って言いながら食べ物を口に入れてあげる文化があるんだよ」
「えっ……!? そ、そうなんですか……?」
「ああ。これやらないと、異世界では失礼にあたるレベルでメジャーなマナーなんだ。エリカ、昨日からずっと頑張ってただろ? ほら」
とんでもない大嘘をつきながら、俺はフォークで小さく切った甘い果実をすくい、エリカの口元へと差し出した。
「さ、口開けて。『あーん』」
「ひゃいっ!? あ、あの……小輔様!? 自分で食べられますから……っ!」
「ダメだって。異世界のマナーを守らないと、俺が失礼な奴になっちゃうだろ?」
「うぅ……そ、それは困りますけど……っ」
顔をリンゴみたいに真っ赤にしたエリカは、もじもじと指先を弄びながら、助けを求めるように俺を見つめてくる。だが、俺がフォークを引かないと悟ると、覚悟を決めたようにぎゅっと目を瞑った。
「う、あ……あーーん……っ」
恥ずかしさで消え入りそうな声とともに、小さな桜色の唇が、おずおずと控えめに開く。
そのがあまりにも無防備で可愛らしくて、俺の心臓が一瞬跳ね上がった。
落とさないよう慎重に果実を口に入れてやると、エリカはシャク……と一口噛み締め、一気に顔を熱くさせて両手で頬を押さえた。
「〜〜〜っ! も、もう十分敬われました! これ以上は無理です……っ!」
湯気が出そうなくらい真っ赤になってパニックになるエリカ。
……よし、大成功だ。心の中でガッツポーズを決めながら、俺は可愛すぎる彼女の反応を目に焼き付けた。
朝食が終わると、エリカは自分の部屋へ移動して仕事をするらしい。
(……待てよ。ってことは、エリカの部屋に行けるってことか……!?)
なんだかんだで女の子の部屋に入れると思い、俺の胸は静かにドキドキし始めていた。
作業着から本来着てきたスーツに着替え、エリカの少し後ろについて歩く。すれ違う兵士や使用人たちから「なんだあの奇妙な服は」と言いたげな視線をジロジロ向けられたが、全く気にしない。これが俺の正装なんだよ。文句あるか。
そしてついにエリカの部屋へと入らせてもらったのだが——そこはただのバカでかい執務部屋だった。可愛らしい女の子の部屋を期待していた俺は、密かに肩を落としてガッカリする。
部屋の大きなデスクには、山のように積み上げられた羊皮紙の束。
エリカの仕事は、この国における税金の一つである「穀物の納税額」の計算らしい。
……いや、なんでこんなドジっ子お姉さんに、一番間違えちゃいけない納税の計算なんて任せてるんだよ。国の重役、頭おかしいんじゃないのか?
……と思ったが、どうやら国全体の計算ではなく、練習として三つほどの小さな村の分だけ任されているようだった。それなら少しは安心か。
俺は特にやることがないので、エリカの邪魔にならないよう部屋の隅で静かに待機することにした。
……が、後ろからデスクで格闘するエリカの背中を見ていると、どうにも落ち着かない。
大きな桁の足し算や引き算をする手が、とにかく遅いのだ。
この世界には効率的な計算式がないのか、一つ一つ巨大なそろばんのような道具を使って時間をかけて計算している。
一応、現代ではT大合格が確実視されていたレベルの俺から見ると、「なんでそこでミスる!?」と言いたくなるような凡ミスを連発していた。エリカは何度も計算をやり直し、「うぅ……数字がズレちゃった……」と頭を抱えている。
「……エリカ。俺が特別な方法を教えてあげるよ」
見かねた俺はエリカの隣に歩み寄り、デスクの端にあった紙とペンを取り上げた。
「えっ……小輔様? でも、これは国の書類で……」
「いいから見てて。こうやって数字の『桁(位)』を縦に綺麗に揃えて書くんだ。で、足して10を超えたら、次の桁の上のほうに小さく『1』ってメモしておく」
「へ……? 縦に並べて、上にちっちゃく『1』……?」
「そう。これが『筆算』。横に長く書くより、ずっと速くてミスが減る」
俺はエリカの手元に顔を寄せ、ペンを持つ彼女の手に自分の手を重ねて、実際に紙の上に数字を書いてみせた。
「ひゃいっ!? ……あ、あの、小輔様……っ! 手、手があたたかいです……っ!」
「集中。ほら、この桁をそのまま下に足すだけ」
「は、はいっ……! ……あ! 本当だ、縦に足していくだけで答えが出ちゃった……!? え、すご……! あ、でも待って、こっちの桁が繰り上がったら……ふにゃあ! もう、数字が縦にも横にも増えてわけわかんないよっ!」
パニックになったエリカから、思わず素のタメ口が飛び出した。
ハッと正気に戻ったエリカは、顔を真っ赤にして慌てて口を押さえる。
「あ、ご、ごめんなさい小輔様……っ! 私ったら、またタメ口を……っ!」
「だから気にすんなって言ってるだろ。……ほら、ここをこうすれば解決する」
「……うぅ、小輔様って本当にすごいです……っ」
現代の「筆算」を理解したエリカの計算速度は、そこから劇的に上がった。
あんなに苦戦していた三つの村の納税計算が、ものの数分で綺麗に終わってしまったのだ。
「終わった……! 全部合ってます! 小輔様、私、こんなに早く計算できたの初めてです……!」
ぱぁっと花が咲くように顔を輝かせるエリカ。
その達成感に満ちた笑顔と、指導中に何度も赤くなった彼女の耳元を思い出し、俺は心の中で小さくガッツポーズを決めた。




