第8話:終わりのための登校と、官能的な讃美歌
玄関の扉を開けると、世界は黄金色に輝いていた。
いつものようなくすんだ灰色の朝ではない。空気の粒の一つ一つが光を乱反射し、まるで天界に迷い込んだかのような、まばゆくも幻想的な光景が広がっていた。
僕が足を踏み出すたびに、アスファルトの上に波紋が広がり、そこから柔らかな光が立ち昇る。頬を撫でる風は春の陽だまりのように暖かく、どこからともなく、甘く芳醇な百合や薔薇の香りが漂ってきていた。
「行こうか、蒼」
隣を歩く彼――美しい少年が、僕の手に自分の白い指を絡めて微笑んだ。
僕たちは手を繋ぎ、光の海を泳ぐようにして学校へと向かった。三日ぶりの登校。僕の身体にはボロボロの制服が纏われているはずだが、僕の目には、それが透き通るような純白のシルクの衣に見えた。
校門をくぐった瞬間だった。
登校してくる大勢の生徒たちの動きが、ピタリと止まった。
数百人の視線が、一斉に僕へと注がれる。
以前なら、その視線には嘲笑、嫌悪、あるいは関わり合いになりたくないという恐怖が混じっていた。
しかし、今は違った。
彼らの目は限界まで見開かれ、呼吸を忘れ、ただただ圧倒的な「美」を前にして魂を奪われたような、熱を帯びた恍惚の表情を浮かべていたのだ。
「……あぁ」
誰かの口から、感嘆の吐息が漏れた。
それを合図にしたかのように、人だかりがモーゼの十戒のように左右に割れ、僕の前に一本の道ができた。
誰もが、僕のあまりの美しさに畏敬の念を抱き、ひれ伏すようにして道を譲っているのだ。
僕は彼と手を繋いだまま、その光の道を静かに歩き出した。
昇降口を抜け、教室へと続く廊下を進む。
その間も、すれ違うすべての生徒、教師たちが、壁際に張り付いて僕を見つめていた。彼らの頬は熱に浮かされたように紅潮し、目は潤み、僕という神聖な存在に少しでも近づきたい、触れたいという抑えきれない欲望と憧憬に震えている。
教室の扉を開ける。
中には、僕を地獄に突き落とした主犯格の佐々木と、その取り巻きたちがいた。
佐々木は僕の姿を見るなり、目を見開き、そして――膝から崩れ落ちた。
「……結城……」
佐々木は這うようにして僕の足元にすがりつき、震える手で僕の靴に触れた。
彼の目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ出していた。それは恐怖でも悔恨でもない。絶対的な存在を前にして、己のちっぽけさと罪深さを悟り、ただひたすらに救済を求める信者の涙だった。
「佐々木くん。どうしたの?」
僕は彼を見下ろし、慈愛に満ちた声で優しく問いかけた。
佐々木は嗚咽を漏らしながら、僕の足にすり寄り、そのまま僕の膝に顔を埋めた。
「ありがとう……結城、ありがとう……」
佐々木は泣きじゃくりながら、僕の膝に、太ももに、熱を帯びた震える唇を何度も押し当てた。
チュッ、チュッという生々しい水音が教室に響く。彼の熱い吐息と、濡れた唇の感触が、制服の生地越しに僕の肌へと伝わってくる。
それは、酷く官能的で、背筋がゾクゾクとするような快感だった。
僕を力でねじ伏せていた男が、今、完全に自我を放棄し、発情した獣のように僕の足元で愛を乞うている。僕から与えられる許しだけを求めて、ひたすらに唇を這わせているのだ。
「ありがとう……僕たちの前に現れてくれて……この醜い僕たちを、照らしてくれて、ありがとう……っ」
佐々木に続き、取り巻きの男たちも僕に群がってきた。
彼らは僕の手にすがりつき、僕の白い指先を奪い合うようにして口付けた。手の甲、指の腹、手首。彼らの舌先が微かに僕の肌を舐め、熱狂的な崇拝のキスが雨あられと降り注ぐ。
「ありがとう、結城くん……!」
「あぁ、なんて綺麗なんだ……触れさせて、もっと僕に触れさせて……!」
さらに、クラスの女子生徒たちも、我慢できないといった様子で僕を取り囲んだ。
彼女たちの目はトロンと潤み、甘い吐息を漏らしながら僕の首筋や肩にすり寄ってくる。柔らかい胸が僕の腕に押し当てられ、彼女たちのふっくらとした唇が、僕の頬や耳たぶに柔らかなキスを落としていく。
ふわりと香る彼女たちの甘い香水と、汗ばんだ熱気。
「結城くん……ありがとう。あなたを見ているだけで、身体の奥が熱くなって、溶けてしまいそう……」
「私にもキスして……あなたのその美しい唇で、私の罪を赦して……っ」
誰もが、発熱したように僕を求め、絡みついてくる。
教室の中は、何十人もの生徒たちの熱い吐息と、濡れた水音、そしてむせ返るような官能的な熱気で満たされていた。
服の上から無数の手が僕の身体を這い回り、撫で回す。それは暴力ではなく、極上の愛撫だった。僕はされるがままに身を任せながら、深い恍惚感に浸っていた。
あぁ、気持ちいい。
世界中のすべてが、僕を愛している。僕の美しさに狂わされ、僕の足元で発情し、僕という唯一神との交わりを求めている。
そこへ、騒ぎを聞きつけた担任の教師と、生活指導の山岸が教室に飛び込んできた。
しかし彼らもまた、僕の姿を見た瞬間、雷に打たれたように立ち尽くし、やがて涙を流しながら僕の元へと這い寄ってきたのだ。
「結城……ああ、結城。私はなんて愚かだったんだ」
山岸は僕の手を取り、その厳つい顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。
あの太い竹刀で生徒を威圧していた男が、今は生まれたての赤ん坊のように僕にすがり、僕の手のひらに熱烈なキスを落としている。
「君のような神聖な存在に気づかず、泥を塗ろうとしていたなんて……。どうか、どうか私を罰してくれ。そして、救ってくれ……。ありがとう……生まれてきてくれて、ありがとう……」
大人も子供も関係なかった。
男も女も、いじめた側も傍観者も。
この空間にいるすべての人間が、僕を中心にして一つの巨大な肉の塊となり、ドロドロに溶け合いながら快楽と救済を貪っている。
「「「ありがとう……ありがとう……」」」
彼らの口から絶え間なくこぼれ落ちる「ありがとう」という言葉。
無数の声が重なり合い、反響し、それはやがて、天高く響き渡る荘厳な讃美歌へと変わっていった。
アー・メン。ハレルヤ。
ありがとう。ありがとう。
僕を賛美する歌声が、美しいメロディとなって僕の脳髄を心地よく揺さぶる。
視界はピンクがかった黄金色に染まり、部屋中に満ちた熱気と甘い匂いが、僕の理性を完全にトロトロに溶かしていった。
僕は、群がる彼らの頭を優しく撫で、その一人一人の額に、許しのキスを与えていった。
僕が唇を触れるたびに、彼らはビクンと身体を震わせ、至上の快楽を得たように目を剥いて「あぁっ……!」と歓喜の喘ぎ声を漏らす。
それは、究極にエロチックで、そして究極に神聖な、世界の終わりの狂宴だった。
「……ふふっ」
僕のすぐ傍らで、透き通るような笑い声が聞こえた。
視線を向けると、美しい少年が、狂乱の渦の中心にいる僕を見つめていた。
彼には誰も触れられない。彼もまた誰にも触れない。彼はただ、完全な傍観者として、この淫靡で神聖な儀式を満足げに眺めていた。
「みんな、やっと君の価値に気づいたみたいだね」
彼は僕の頬にそっと手を伸ばし、クラスメイトたちのキスの跡をなぞるように、自分の冷たい指を這わせた。
他の誰の熱い口付けよりも、彼のその冷たい指先の感触だけが、僕の芯を最も強く痺れさせる。
「君は本当に素晴らしいよ、蒼。この愚かな人間たちを、君のその美しさだけで完全に支配し、救済してしまったんだから」
「きみが、そうさせてくれたんだよ」
僕は群がる信者たちをかき分け、彼に向かって両手を広げた。
彼はふわりと僕の腕の中に飛び込み、僕の唇に、今日一番の深くて甘いキスをした。
周囲で響き渡る「ありがとう」の讃美歌が、クレッシェンドを迎える。
僕たちの舌が絡み合い、互いの体温が溶け合う。周囲の人間たちの熱狂的な視線と喘ぎ声が、僕たちのキスをさらに官能的なものへと高めていく。
「……さあ、蒼」
唇を離し、彼が濡れた瞳で僕を見つめ上げる。
「十分に楽しんだだろう? 彼らはもう、君なしでは生きられない身体になってしまった。君が彼らを許し、救いを与えたんだ」
「うん」
「だから……これで、終わらせよう。最高の気分のまま、この世界ごと、全部消し去ってあげよう」
終わらせる。
その言葉の響きは、どんな愛の囁きよりも甘く、僕の胸を締め付けた。
そうだ。もう思い残すことは何もない。
この世界は、今、この瞬間が一番美しい。だからこそ、この絶頂のまま、すべてを永遠に固定してしまわなければならないのだ。
「みんな、さようなら。僕を愛してくれて、ありがとう」
僕は、床にひれ伏し、快楽の余韻に身をよじらせている同級生や教師たちに向かって、最後に極上の笑顔を向けた。
彼らは「行かないで!」「あぁ、僕の神様!」と泣き叫びながら僕に手を伸ばしたが、僕の身体にもう触れることはできなかった。
僕と彼はしっかりと手を繋ぎ、彼らが作る肉の波を抜け出して、教室の扉を出た。
廊下にも、僕を崇め、キスを求める生徒たちが溢れ返っていた。
しかし僕たちは、彼らの間をすり抜け、ただ真っ直ぐに階段へと向かった。
一段、また一段と上っていく。
背後からは、僕を讃える「ありがとう」の讃美歌が、大合唱となって追いかけてくる。それはまるで、僕たちの神々しい昇天を見送る、天使たちの祝福のようだった。
四階。そして、さらにその上。
見慣れた重い鉄扉の前に立つ。
扉の向こうからは、強い風の音が聞こえてくる。
「準備はいい?」
彼が、僕の顔を覗き込んで微笑んだ。
僕も同じように微笑み返し、彼の手を強く握り返した。
「うん。開けよう、僕たちの楽園の扉を」
僕は重いノブに手をかけ、体重をかけて押し開けた。
ギィッ……という音と共に、まばゆいばかりの純白の光と、突風が僕たちを包み込む。
すべてのノイズが消え去り、そこにはただ、果てしなく広がる美しい空だけが待っていた。
さあ、最後の儀式を始めよう。
僕が彼になり、彼が僕になるための、究極のハッピーエンドを。




