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最終話:天使な友人、あるいは美しき悪魔の罠

重い鉄扉の向こう側は、まばゆいほどの純白の光に満ちていた。

吹きすさぶ風すらも、今の僕には心地よい春のそよ風のように感じられた。夕暮れの赤黒い空はとうに姿を消し、僕の視界には、ただ圧倒的で完璧な無菌室のような、光の世界だけが広がっている。

階下から響いていた、僕を崇める生徒たちの狂熱的な「ありがとう」の讃美歌は、扉を閉めた瞬間にピタリと止んだ。

ここは、完全に隔離された聖域。

僕と、彼だけの場所だ。

「さあ、おいで、蒼」

数歩先を歩いていた彼が、フェンスの前に立ち、ゆっくりと振り返った。

透き通るような白い肌。色素の薄いサラサラとした髪。そして、ビー玉のように澄み切った瞳。

彼が僕に向かって両腕を広げた、その瞬間だった。

バサッ――。

彼の華奢な背中から、まばゆい光の粒子を振り撒きながら、巨大で美しい純白の『翼』が現れた。

一枚一枚の羽が真珠のような光沢を放ち、周囲の空気を神聖なものへと変えていく。

それはまさしく、宗教画から抜け出してきた本物の『天使』の姿だった。

「あぁ……綺麗だ……」

僕は感嘆の溜息を漏らし、吸い寄せられるように彼に近づいた。

フェンスを乗り越え、十センチほどの狭いコンクリートの縁に立つ。あの日、彼と初めて出会い、命を繋ぎ止められた場所。だが今日の僕は、もう絶望の涙など流していなかった。

「君も、とても綺麗だよ」

天使である彼は、愛おしそうに僕の頬を撫でた。

その時、僕の背中にもカッと熱いものが走った。痛みではない。身体の奥底から何かが解放されるような、圧倒的な全能感。

振り返らなくてもわかった。僕の背中にも今、彼と全く同じ、純白の美しい翼が生え揃っていたのだ。

完全に同化し、僕は彼になり、彼もまた僕になった。

もはや、この醜い肉体という重力に縛られている必要はない。

彼は僕の手を強く、そして優しく握りしめた。

絡み合う白い指と指。

彼は僕を見つめ、あの日と同じ、鈴を転がすような声で、あの言葉を紡いだ。

「君が望むように、この世界のすべてを消し去ってあげるよ」

僕の口角が、自然と上がり、満面の笑みがこぼれた。

「ありがとう」

僕たちは見つめ合い、互いに極上の笑顔を浮かべたまま、繋いだ手を高く掲げた。


――ガンッ!!

鉄扉が、凄まじい音を立てて蹴り開けられた。

「おい結城! どこ行きやがった、ふざけんな!!」

怒号と共に屋上に雪崩れ込んできたのは、佐々木と、その取り巻きの数人の男子生徒たちだった。

彼らの顔は、結城蒼という「おもちゃ」が、自分たちの命令を無視して薄気味悪い笑みを浮かべたまま立ち去ったことへの、激しい怒りと苛立ちで歪んでいた。

万引きの濡れ衣を着せ、学校中の笑いものにしてやったというのに、結城は泣き叫ぶどころか、自分たちを完全に「無視」して屋上へと向かったのだ。その態度が、彼らのちっぽけな自尊心をひどく傷つけていた。

「あいつ、絶対ボコボコにして……っ!?」

屋上を見渡した佐々木は、言葉を失い、その場に立ち尽くした。

夕暮れの、血のように赤い空。

冷たい強風が吹き荒れる中、屋上のフェンスの外側――落下防止の金網の向こう側の、わずかな縁の部分に、結城蒼が立っていた。

ボロボロの制服を着て、泥だらけの靴を揃えて脱ぎ捨てた結城は、虚空に向かって手を伸ばしていた。

結城の視線の先には、誰もいない。何もない。

それなのに、結城はまるで、そこに『世界で一番愛おしい誰か』がいるかのように、頬を染め、うっとりとした、狂気すら感じるほどの美しい笑顔を浮かべていたのだ。

「……ゆ、ゆうき……?」

佐々木の背筋に、これまでに感じたことのない、得体の知れない悪寒が走った。

怒りではない。それは、完全に「壊れてしまった人間」を目の当たりにした生物としての根源的な恐怖だった。

結城はこちらを一切見ていない。佐々木たちの存在など、結城の視界には一ミリも映っていないのだ。結城はただ、見えない『誰か』と見つめ合い、何事かを囁き合っている。

「……ありがとう」

風に乗って、結城の透き通るような声が聞こえた。

そして結城は、見えない何者かと手を繋ぐような仕草をしたまま、自ら、空中へと足を踏み出した。

「待てッ!!」

佐々木は反射的に叫び、手を伸ばして駆け出していた。

いじめのターゲットを失いたくなかったからではない。目の前で、あまりにも異様で、あまりにも静かな『死』が実行されようとしているのを、本能が止めようとしたのだ。

しかし、遅かった。

結城の身体は、赤い夕空の中へふわりと吸い込まれ、そのままフェンスの向こう側へと消えた。


風が、純白の羽を揺らす。

僕たちは空を舞い上がり、光に包まれた永遠の楽園へと旅立っていく。

痛みも、悲しみもない、僕たちだけの美しい世界へ――。


僕たちは見つめ合い、互いに極上の笑顔を浮かべたまま、繋いだ手を高く掲げた。

そして、躊躇うことなく、二人同時に虚空へと身を躍らせた。

風が、純白の羽を揺らす。

これでようやく、痛みも悲しみもない、僕たちだけの美しい世界へ行ける。

永遠の楽園へと導いてくれるはずの彼を、僕は空中で愛おしげに見つめた。

しかし――。

「……え?」

僕と手を繋いでいたはずの、白く細い指が。

ズルリと、黒いヘドロのようなものを撒き散らしながら腐り落ちていく。

「な……に……?」

純白だったはずの美しい天使の翼は、無数の虫が湧くボロボロのコウモリの被膜へと変貌し、澄み切っていたオゾンの香りは、吐き気を催すほどの臓物の腐乱臭へと変わった。

そして、僕が何よりも愛した、あの神様のように美しい彼の顔が。

まるで焼け焦げた紙のように剥がれ落ち、その下から、無数の巨大な目玉と、鋭い牙を剥き出しにした、悍ましく禍々しい『悪魔』の素顔が現れたのだ。

『――――』

声にならないおぞましいノイズが、悪魔の裂けた口から漏れる。

落下していく極限の数秒間。周囲の景色がスローモーションのように引き伸ばされる中、悪魔は僕の脳内に『ある映像』を強制的に流し込んだ。

それは――僕がここで死なずに、生き延びた先の『未来の現実』だった。

映像の中で、僕は学校から逃げ出し、別の場所で新しい道を歩み始めていた。

そこで僕は、僕の痛みを本当に理解し、一緒にバカみたいに笑い合える『本物の親友』たちと出会う。

やがて大人になり、心から愛する女性と巡り会う。彼女と手を取り合い、決して裕福ではないけれど、温かで笑いの絶えない家庭を築く。

僕の腕の中には、産まれたばかりの小さな赤ん坊。

休日の公園。たくさんの友人たちと家族に囲まれ、バーベキューをしながら、心底幸せそうに笑う未来の僕の姿。

特別にお金持ちでも、偉いわけでもない。

けれどそこには、確かな愛情と、ささやかで穏やかな幸せに満ちた、光り輝くような長い人生があった。

「あ……あぁ……っ」

理解してしまった。

佐々木たちからのイジメは、確かに耐え難い地獄だった。しかし、それは僕の長い人生における、ほんの一瞬の出来事に過ぎなかったのだ。

あそこから逃げ出しさえすれば。誰かに助けを求め、ただ『生きること』さえ諦めなければ、僕にはこれほどまでに素晴らしく、愛に溢れた未来が待っていたのだ。

この悪魔は、僕を救済したのではない。

絶望で弱り切った僕の心につけ込み、僕からその『輝かしい未来』を騙し取るために、甘い言葉で僕を死へと誘惑しただけだったのだ。

「いやだ……っ、いやだ!!」

生きたい。

あの温かい未来に行きたい。

死にたくない!!

地面が、恐ろしい速度で迫ってくる。

僕は必死に悪魔の手を振りほどき、虚空に向かって手を伸ばした。

(助けて! 誰か、助けて! 僕は、生きたい……っ!!)

しかし、声帯は恐怖で引きつり、声にならない掠れた息が漏れるだけ。

空を掴む僕の手に触れるものは、もう何もない。

絶望と、圧倒的な後悔に歪む僕の顔を見て。

悪魔は、その悍ましい顔にニヤリと嘲笑を浮かべた。

『――最高の絶望を、ありがとう』

その禍々しい感謝の言葉と共に。

ドシャァァッ……!!

四階建ての校舎の下から、重いスイカをコンクリートに叩きつけたような、ひどく鈍く、生々しい破裂音が響き渡った。

「あ……ぁ……」

フェンスにすがりつき、下を覗き込んだ佐々木の喉から、ヒューッという空気が漏れた。

眼下のコンクリートの地面。

つい先程まで自分たちが殴り、蹴り、嘲笑っていた結城蒼が、あり得ない方向に手足を曲げ、頭から大量の血の海を作って横たわっていた。

「うわああああっ!?」

「ひぃっ、あ、あああ……っ!」

取り巻きたちがパニックを起こし、尻餅をついて後ずさる。

佐々木はガチガチと歯を鳴らしながら、その凄惨な光景から目を離すことができなかった。

その時だった。

血だまりの中に横たわる結城の遺体のすぐ傍らに、見知らぬ『美しい少年』が立っているのが、佐々木の目に入った。

真っ白な肌、色素の薄い髪。

その少年は、ぐしゃぐしゃになった結城の遺体を愛おしそうに見つめた後、ゆっくりと、屋上から見下ろす佐々木の方へと顔を上げた。

ビー玉のように澄み切った瞳と、目が合った。

少年は、佐々木に向けて、酷く冷酷で、悪魔のような嘲笑を浮かべた。

『――君たちのせいだよ』

声には出していなかった。だが、その言葉は直接、佐々木の脳髄に雷のように響き渡った。

少年が、背中から生えた漆黒の翼――否、天使のような純白の翼を広げたかと思うと、その姿は夕闇の中へ陽炎のように溶けて消えた。

「おえええええええっ!!」

佐々木はその場に崩れ落ち、胃液を撒き散らしながら絶叫した。

恐怖、混乱、そして、決して取り返しのつかない『殺人』を犯してしまったという、巨大な十字架が背中に突き刺さった瞬間だった。

     *

結城蒼の飛び降り自殺は、またたく間に学校中、そして社会を巻き込む大事件へと発展した。

警察の介入により、佐々木たちがでっち上げた『万引き動画』はすぐに偽造であると暴かれた。彼らが結城のカバンに美術書をねじ込む様子が、書店の防犯カメラに別の角度からバッチリと映っていたのだ。

さらに、裏掲示板の書き込み履歴、切り裂かれた体操着、そして日常的に行われていた暴力の数々が、白日の下に晒された。

「違う、俺は……俺はただ、ちょっとからかっただけで……殺すつもりなんて……っ!」

警察の取調室で、佐々木は泣き喚いた。

しかし、彼の脳裏には、空の虚空に向かって美しく微笑みながら落ちていった結城の顔と、血だまりの中で自分を嘲笑った『美しい少年』の姿がこびりついて離れなかった。

彼は夜眠るたびに、結城が飛び降りる瞬間の夢を見て、悲鳴を上げて跳ね起きる身体になっていた。一生消えることのない幻覚と罪悪感に苛まれ、精神を病んだ彼は、鉄格子のある隔離病棟へと送られることになった。

彼だけではない。

クラスメイトたちもまた、地獄に突き落とされた。

『万引き犯』と結城を罵り、動画を笑いながら拡散した彼らは、一転して『無実の少年を自殺に追い込んだ殺人鬼の集団』として、世間からの激しいバッシングと特定作業に晒された。

彼らのスマートフォンには、かつて結城に向けたのと同じ、いやそれ以上の大量の誹謗中傷が昼夜を問わず届き続ける。

彼らは気づいたのだ。結城を嘲笑っていた自分たちこそが、最も醜く、最も愚かな加害者であったことに。その十字架の重さに押し潰され、学校を辞め、暗い部屋で一生後悔の念を抱きながら生きていくことになった。

生活指導の山岸も、教師としての生命を完全に絶たれた。

「いじめの事実を知りながら放置し、あまつさえ被害者に暴力を振るって追い詰めたクズ教師」。

連日マスコミに追い回され、妻や子供からも見放された山岸は、酒に溺れ、自室の首吊りロープを見つめながら、あの時結城の訴えを聞いていればと、血の涙を流して懺悔する日々を送る。

そして、母親。

遺体安置所で、修復不可能なほどに壊れた息子の亡骸と対面した彼女は、発狂したように泣き叫んだ。

『――ごめんね、お母さん。もう、心配かけないから』

それが、息子から聞いた最後の言葉だった。

自分は、いじめに苦しんでいた息子を信じず、世間体を気にして突き放した。息子が最後に自分に向けたあの透き通った声は、自分への気遣いなどではなく、完全にこの世界に見切りをつけた『絶望の響き』だったのだ。

彼女は結城の遺骨を抱いたまま、二度と笑うことはなくなった。自分の浅はかさが息子を殺したのだという事実が、鋭いナイフとなって永遠に彼女の心臓をえぐり続ける。


結城蒼の死は、加害者たちに永遠の罰を与えた。

しかし、彼にとっての最大の罰は、自分自身の『愚かな選択』そのものだった。

あの美しい少年。

結城の弱さから生み出された、甘く優しい逃避の象徴。

彼は天使のふりをして近づき、結城から『未来の可能性』という最も尊いものを奪い取った悪魔だったのだ。

もしあの時、死を選ぶのではなく、逃げる勇気を持っていれば。

もしあの時、誰かに助けを求める声に出していれば。

彼には、温かく、愛に満ちた素晴らしい人生が待っていたのだ。

一時の絶望に負け、自ら命を絶つこと。

それは決して救済などではない。未来に待っているはずの無数の幸せを自らの手で握りつぶす、最も悲しく、最も無駄な行為なのだ。

冷たいコンクリートの上に残された血痕だけが、その残酷な真実を、声なき声で世界に訴え続けていた。

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