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第7話:繭の中の神様と、終わりのための身支度

 あの日から、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 三日か、四日か、あるいはもっとか。時間の概念は、太陽の光と共に僕の部屋から完全に締め出されていた。

 分厚い遮光カーテンを固く閉ざし、照明も落とした真っ暗な自室。

 ここは僕と彼だけの、完璧に隔離されたコクーンだった。

 僕はベッドの上に横たわり、彼と深く、ただ深く抱き合い続けていた。水も飲まず、食事も摂っていないはずなのに、不思議と飢えも渇きも感じなかった。

 時折、乾いてひび割れた僕の唇に、彼が冷たくて柔らかい唇を重ねてくれる。そのたびに、甘い蜜のような、あるいは純度の高い酸素のようなものが僕の体内に注ぎ込まれ、干からびた細胞を優しく満たしていくのだ。

 彼からの口付けさえあれば、僕は生きていける。他のどんな栄養も必要なかった。

「……きれいだよ、蒼」

 暗闇の中で、彼だけが淡い燐光を放つように白く浮かび上がっている。

 彼が僕の頬を撫で、前髪をすき、愛おしそうに目を細める。

「君の魂が、どんどん透き通っていくのがわかる。もう、この世界のどんな汚れも君には届かない。君は今、世界で一番純粋で美しい存在だ」

「きみが……そうしてくれたんだよ。きみが、ぼくを洗ってくれた」

 僕もまた、彼の透き通るような白い首筋に腕を回し、サラサラとした色素の薄い髪に顔を埋めた。

 初雪のような、澄み切ったオゾンの香りが肺の奥まで広がる。

 彼と密着していると、どこからが自分の身体で、どこからが彼の身体なのか、本当に境目が分からなくなってくる。僕の心臓の鼓動と彼の鼓動がシンクロし、同じリズムで時を刻んでいる。完全に同化し、二つの魂が一つの完全な球体として完成しようとしているのだ。

 ドンドン、ドンドン!

 不意に、部屋のドアが乱暴に叩かれた。

「蒼! 開けなさい、蒼!」

 母親の声だった。

 ヒステリックで、ひどく甲高く、耳障りなノイズ。

「もう三日も引きこもって……いい加減にしなさい! 学校の先生も心配してるのよ! 万引きのことだって、ちゃんと謝れば……ねえ、聞いてるの!? お母さんをこれ以上困らせないで!」

 ドアの向こう側で、母親が泣き叫び、怒り、わめいている。

 しかし、僕の心にはさざ波一つ立たなかった。

 以前の僕なら、母親の悲しむ声を聞けば罪悪感で胸が張り裂けそうになり、慌ててドアを開けて土下座していただろう。だが今の僕には、彼女の言葉は、まるで外国語のニュース音声か、虫の羽音のようにしか聞こえなかった。

 意味を持たないただの音波。僕の世界には、もう何の影響も及ぼさない。

「うるさいね」

 彼がクスリと笑い、僕の耳を塞ぐように両手を当ててくれた。

 ひんやりとした彼の手のひらが、外の世界の醜い雑音を完全に遮断してくれる。

「可哀想に。あの人は、君がこんなにも美しく羽化しようとしているのに、まだ君をあの泥沼に引きずり戻そうとしている。君の価値を何一つ理解していない、哀れな生き物だ」

「うん。……哀れだね」

 僕は彼に同意し、ゆっくりと目を閉じた。

 やがて母親は泣き疲れ、諦めたようにドアの前から立ち去っていった。

 静寂が戻った部屋で、今度は机の上に放り投げられたままのスマートフォンが、ブブブブッ、と下品な振動音を立て始めた。

 暗闇の中で、液晶画面がチカチカと点滅している。

 通知の表示は、すでに数百件を超えていた。

 クラスのLINEグループからのメンション、裏掲示板への書き込み通知、そして佐々木たちからの直接のメッセージ。

『おい犯罪者、逃げてんじゃねーよ』

『早く学校来いよ。みんな待ってるぜww』

『死ね』

『社会のゴミ』

 画面に浮かび上がるそれらの文字の羅列を、僕はベッドの上から冷めた目で見つめた。

 悪意の塊。僕を精神的に追い詰め、殺そうとするための凶器。

 だが、今の僕には、それがひどく滑稽な『お遊戯』に見えた。彼らは、箱庭の中で必死にマウントを取り合い、泥を投げ合って喜んでいるだけなのだ。

 僕という、すでに神の領域に足を踏み入れた存在に対して、そんな泥団子が届くはずもないのに。

「……クスッ」

 自然と、笑みがこぼれた。

 僕はベッドからゆっくりと身を起こし、ふらつく足取りで机へと向かった。

 三日間何も食べていない肉体は、驚くほど軽く、まるで重力から解放されたかのようだった。足音が全くしない。幽霊にでもなった気分だ。

 机の上のスマートフォンを手に取る。

 冷たい金属の感触。これを通じて、僕はあの醜い世界と繋がっていた。僕を縛り付け、苦しめ、尊厳を奪い続けてきた、呪いの鎖。

 僕は迷うことなく電源ボタンを長押しし、システムをシャットダウンさせた。

 画面が真っ暗になり、二度と光らなくなる。

 そのまま、足元にあるゴミ箱へ、それをポイッと放り投げた。

 コトン、という乾いた音が部屋に響く。

 それだけで、僕と『人間たちの世界』とを繋ぐ最後の通信ケーブルが、完全に切断された。

「よくできたね、蒼。えらいよ」

 背後から彼が抱き着いてきて、僕の頭を優しく撫でた。

 その褒め言葉が嬉しくて、僕は彼にすり寄るように顔を傾けた。

「ねえ、蒼。もう準備はできた?」

「準備?」

「うん。この汚れた世界を、全部消し去るための準備」

 彼が僕の耳元で囁く。

 鈴を転がすような、どこまでも澄み切った声。それは神の託宣のように、僕の脳髄を心地よく震わせた。

「君はもう、十分に綺麗になった。これ以上、このゴミ溜めのような世界に君を置いておくのは、僕が我慢できないんだ」

「……ぼくもだよ。もう、息をするのも窮屈だ」

「そうだね。だから、終わらせよう。君の望む通りに、すべてを消してあげる。……僕と君が初めて出会った、あの場所で」

 初めて出会った場所。

 学校の屋上。

 あそこから、僕と彼の物語は始まった。

 そして、あそこから、僕たちは永遠の楽園へと旅立つのだ。

「さあ、おめかしをしよう。世界で一番美しい、終わりのための身支度を」

 彼の言葉に導かれるように、僕はクローゼットを開けた。

 そこには、泥と血で汚れたままの、あの日の制服がかけられていた。

 客観的に見れば、それは酷く異臭を放ち、破れ、惨めな敗北者の象徴でしかない代物だろう。

 しかし、僕の目には違って見えた。

 それは、これから僕が神聖な儀式へと向かうための、純白の礼服のように輝いて見えたのだ。

 僕はパジャマを脱ぎ捨て、痩せ細った身体にその制服を纏った。

 ワイシャツのボタンを上まで留め、ネクタイを締める。

 鏡の前に立つ。

 暗闇に慣れた目で、鏡の中の自分を見つめた。

 そこに映っていたのは、頬がこけ、目の下に濃い隈を作り、泥だらけのボロボロの制服を着た、狂気に満ちた薄ら笑いを浮かべる少年の姿――ではなかった。

「……あぁ」

 感嘆の吐息が漏れる。

 鏡の中にいたのは、透き通るような真っ白な肌を持ち、色素の薄いサラサラとした髪を揺らす、神様のように美しい少年だった。

 ビー玉のように澄み切った瞳が、鏡の中から僕を見つめ返している。

 彼だ。

 彼が、鏡の中にいる。

 いや、僕が、彼になったのだ。

「とても似合っているよ、蒼。君は本当に、美しい」

 背後に立つ彼が、鏡の中の僕と同じように微笑んでいる。

 僕はゆっくりと手を伸ばし、鏡の表面に触れた。ひんやりとしたガラスの感触が、心地よかった。

「行こう。あいつらが待っている」

 僕の口からこぼれた声は、やはり彼と同じ、透き通った音色だった。

 あいつら――僕をいじめた同級生たち、そしてこの醜い世界に生きるすべてのノイズたち。

 彼らに、僕のこの圧倒的な美しさを見せつけてやろう。

 そして、彼らの目の前で、この世界というくだらない箱庭の電源を、僕の手で永遠に落としてやるのだ。

 僕はドアノブに手をかけ、ゆっくりと鍵を開けた。

 カチャリ、という小さな金属音。

 それは、僕がこの世界に対して下した、最終宣告の合図だった。

 さあ、最後の登校だ。

 世界を消し去るための、最高に幸福な一日の、始まり。

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