第4話:エスカレートする悪意と、鼓膜を甘く噛む毒
第三トイレでの出来事を境に、僕を取り巻く環境はさらなる異次元の段階へと突入した。
佐々木たち主犯格による暴力は相変わらずだったが、それ以上に厄介だったのは、クラス全体を巻き込んだ「精神的な凌辱」へのエスカレートだった。
登校すれば、下駄箱の靴には必ず無数の画鋲が敷き詰められている。授業中、教科書を開こうとすれば、中身のページがカッターで無惨に切り刻まれている。体育の着替えの際には、僕の体操着だけがハサミでズタズタに切り裂かれ、ゴミ箱に捨てられていた。
僕が困惑し、絶望する顔を見たいのだろう。彼らの手口は日を追うごとに陰湿さを増し、周囲のクラスメイトたちもまた、それを見て見ぬふりをするどころか、クスクスと隠れて嘲笑うようになっていた。教室全体が巨大な悪意の塊となって、僕という異物をすり潰そうと機能しているかのようだった。
――しかし。
彼らの期待とは裏腹に、僕の心は驚くほど平穏だった。
「……あーあ。また切られちゃったな」
ゴミ箱から回収した、ボロ布のようになった体操着を見つめながら、僕は小さく呟いた。
悲しみはなかった。怒りも湧かない。ただ、「これを着て授業には出られないから、一人でサボる口実ができたな」という、ひどく冷め切った安堵だけがあった。
僕の異常なまでの無反応さは、かえって佐々木たちを苛立たせたらしい。「気味の悪い奴だ」「もっと泣き叫べよ」と、さらに陰湿な嫌がらせが繰り返されたが、僕にとってそれは、路傍の石につまずく程度の些事になり果てていた。
なぜなら、僕の意識はすでに、この現実世界にはなかったからだ。
僕の頭の中を占めているのは、ただ一つ。
(早く、ひとりになりたい)
その強烈な渇望だけだった。
ひとりになれば、彼に会える。あの美しく、優しく、甘い匂いのする天使のような少年に。
彼にもう一度触れてもらうためなら、どんな屈辱も、暴力も、ただの「待ち時間」でしかない。今の僕にとって、現実の学校生活は、彼という絶対的な麻薬を摂取するための、長くて退屈なインターバルに過ぎなかった。
僕はズタズタの体操着をゴミ箱に戻し、誰にも見つからないように旧校舎の裏手へと向かった。
普段は誰も来ない、雑草の生い茂る中庭の隅。そこにある古びた百葉箱の陰に身を隠し、体育の授業が終わるまでの時間を潰すことにした。
膝を抱え、目を閉じる。
秋の冷たい風が、体育着を持たずワイシャツ一枚の僕の身体から体温を奪っていく。昨日の暴行の跡がズキズキと痛み、ズボンの下にある脚には無数の青痣ができているのがわかった。
痛い。寒い。
でも、これでいい。僕が傷つき、孤独に震えれば震えるほど、彼は必ず現れてくれるのだから。
――ふわり。
風の匂いが、変わった。
土埃と枯れ草の匂いが、一瞬にして、あの初雪のような、澄み切ったオゾンの香りに塗り替えられる。
「……来て、くれたんだね」
目を開けるよりも早く、僕は安堵の吐息を漏らしていた。
ゆっくりと顔を上げると、くすんだ旧校舎の壁を背にして、彼が立っていた。
透き通るような白い肌、風に揺れる色素の薄い髪。暗い日陰にいるというのに、彼だけが自ら発光しているかのようにまばゆい。
「もちろん。君がひとりで泣いているのに、僕が来ないわけないじゃないか」
彼は鈴を転がすような声でそう言うと、僕の前にしゃがみ込み、その白く細い腕を広げた。
僕はまるで、親鳥を見つけた雛のように、あるいは磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、彼に向かって倒れ込んだ。
「あ……っ、う……ぁ……」
彼の腕の中にすっぽりと収まった瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、嗚咽が漏れた。
彼が僕の背中に腕を回し、ぎゅっと、骨が軋むほど強く抱きしめてくれる。
ひんやりとしているのに、なぜか僕の魂の芯まで焦がすような、圧倒的な温もり。彼の細い身体からは想像もつかないほどの強い力でホールドされ、僕は完全に彼の腕の中に囚われた。いや、自ら進んで囚われに行っていた。
「がんばったね、蒼。今日もいっぱい、理不尽な目に遭って、痛かったね」
彼の顔が、僕の首筋にすり寄ってくる。
サラサラとした彼の髪が僕の頬をくすぐり、彼自身の吐息が、僕の頸動脈のあたりに直接吹きかけられた。
「……っ、ん、あ……っ」
ゾクゾクと、背筋に電流が走るような甘い痺れが広がっていく。
彼は僕を強く抱きしめたまま、僕の首筋に、あの冷たくて柔らかい唇を押し当てた。
ちゅっ、ちゅっ……と、微かな水音を立てながら、彼は僕の首筋に何度も、何度もキスを落としていく。
首の横、耳の下、そして脈打つ喉仏のすぐそば。
彼の唇が触れるたびに、そこから甘い毒液が血管に直接注入されていくような感覚に陥った。毒は一瞬にして全身を巡り、僕の身体を苛んでいた痛みも、寒さも、屈辱も、すべてをドロドロに溶かして無効化していく。
「あ……あぁ……っ、きみ、の……」
息が上手く吸えない。あまりの快感と幸福感に、脳が酸素不足を起こしているようだった。
彼は僕の反応を楽しむようにクスリと笑うと、今度は標的を変え、僕の耳へと唇を這わせた。
「ん……っ!?」
耳たぶを、柔らかい唇でそっと挟み込まれる。
そして、舌先で耳の輪郭をなぞるように這わせた後、耳の穴のすぐ近くに唇を寄せ、意図的に熱を孕んだ吐息を吹き込んできた。
「はぁ……っ、だめ、そこ……っ」
敏感な場所を直接蹂躙され、僕の口からだらしない甘い声が漏れた。
だが、彼は許してくれない。僕の逃げ場を塞ぐようにさらに強く抱きしめ、耳殻にチュッと強いキスを落とす。
鼓膜のすぐ近くで響く、彼のキスの音と、甘い吐息。
それが、僕の脳髄を直接愛撫しているように感じられた。
嫌悪感など欠片もない。ただ、ただ、果てしない幸福感で胸が張り裂けそうだった。
世界中で、こんなにも美しく絶対的な存在が、僕だけを求めて、僕だけを愛して、僕だけにこの極上の快楽を与えてくれている。
その事実だけで、僕は自分が世界の王にでもなったかのような、全能感に満ちた多幸感に包まれていた。
「……気持ちいい? 蒼」
耳元で、彼が囁く。
鼓膜を直接震わせるその声は、甘く、甘く、そして恐ろしいほどに狂気を孕んでいた。
「うん……っ、きもち、いい……すごく、しあわせ……」
「よかった。僕も、君に触れていると幸せだよ。……ねえ、蒼」
彼が、僕の耳たぶを甘噛みしながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「こんなに気持ちいいのに、どうして外の世界はあんなに痛いんだろうね」
「……」
「君を傷つける佐々木も、それを見て笑うクラスメイトも、気づかないふりをする先生も。みんな、君の美しさを理解できない、愚かで醜い生き物だ」
彼の言葉が、耳から脳へと直接浸透していく。
それは僕の思考を奪い、彼の色に染め上げていく、完璧な洗脳だった。
「痛いのは嫌だよね。苦しいのは嫌だよね。……なら、あいつらが全員、消えてしまえばいいと思わない?」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
あいつらが、消える。
死ぬとか、殺すとか、そういう生々しい言葉ではなく、「消える」。
その響きは、今の僕にとって、あまりにも魅力的で、そして「正当な報い」のように思えた。
「あいつらはゴミだよ。君の人生という美しい舞台には必要のない、ただのノイズだ。……ノイズは、消去しなくちゃいけないよね?」
彼の冷たい唇が、再び僕の首筋に吸い付く。
強く吸われ、赤い痕が残るのがわかった。彼が僕に刻み込む、彼だけの所有印。
その痛みを伴う快感に身をよじらせながら、僕は完全に理性を手放した。
「……うん……っ、消えれば、いい……」
とろんと溶けたような声で、僕は同意した。
そうだ。彼らが悪いんだ。僕をいじめ、僕の尊厳を奪った彼らこそが、この世界から排除されるべき不純物なのだ。
「あいつらなんか、みんないなくなればいい……。ぼくには、きみだけがいれば、それでいい……っ」
僕がそう断言すると、彼は僕の耳元から顔を離し、満面の笑みを浮かべた。
それは、聖母のように慈愛に満ちた、そして悪魔のように残酷な、息を呑むほど美しい微笑みだった。
「いい子だね。本当に、君は最高だよ」
彼は僕の額にそっとキスを落とす。
「君が望むなら、僕が手伝ってあげる。この醜い世界を、君の望む通りに、全部壊してあげるからね」
旧校舎の裏手。冷たい日陰の中で、僕たちは強く抱き合い続けた。
彼の体温と、甘い匂い、そして皮膚に刻み込まれたキスの感触。
僕は圧倒的な幸福感の中で、静かに、そして完全に、後戻りのできない狂気の淵へと足を踏み入れていた。
もう、現実の倫理観などどうでもよかった。
僕の神様は、今、僕の腕の中にいるのだから




