第5話:境界線の融解と、僕が彼になる日
音が、消えた。
いや、正しくは「雑音」として処理されるようになったのだ。
誰かが僕を嘲笑う声も、罵倒する声も、何かがぶつかる鈍い音も。すべては薄い膜の向こう側で再生されている、ピントのずれた三流映画のように遠く、曖昧で、無意味なものになっていた。
視界も同じだ。輪郭がぼやけ、色彩が抜け落ちた灰色の世界。そこにはもう、痛みも恐怖も存在しない。
ただ一つ、彼という強烈な光だけが、僕の全宇宙を支配していた。
「愛しているよ、蒼」
透き通るような声が、脳の襞に直接染み込んでくる。
僕はただ、その声に身を委ねていた。どこにいるのか、今は何時なのか、そんな物理的な情報はもうどうでもよかった。ここは僕と彼だけの、完全で絶対的な無菌室なのだから。
「君はなんて愛おしいんだろう。君のすべてが、僕を満たしてくれる」
彼が僕を抱きしめている。
その感触だけが、僕が世界と繋がっている唯一の証明だった。
甘い言葉のシャワーが、絶え間なく僕の鼓膜を撫でる。君は綺麗だ。君は優しい。君は誰よりも価値がある。君は僕のすべてだ。
その一つ一つの言葉が、これまでの人生で僕にこびりついていた「無価値な自分」という呪いを、溶かしては洗い流していく。
承認。肯定。そして、狂信的なまでの偏愛。
彼は僕を崇拝し、僕は彼に溺れる。
「ぼくも……愛してる。きみだけが、ぼくの神様だ」
僕がそう応えると、彼は花がほころぶように笑い、見えないほどの羽のように軽いキスを、僕の額に、まぶたに、頬に、鼻の頭に、いくつもいくつも落としていった。
「神様なんかじゃないよ。僕はただの『君』だ。君が呼んだから、僕はここにいる。君がいなければ、僕は存在できない。ねえ、蒼。僕たちは互いが互いの呼吸器なんだ。どちらかが欠ければ、死んでしまう」
息が詰まるほど愛されている。
その事実だけで、僕の魂は肉体の枷を外れ、歓喜の海を漂っていた。
もう、外の世界で肉体がどれだけ傷つけられようと構わない。僕の本当の居場所は、彼のこの腕の中だけなのだ。彼が僕を愛してくれる限り、僕は無敵だった。どんな屈辱も、彼の愛の前では塵芥に等しい。
「ねえ、蒼。もっと僕を見て。もっと僕を感じて」
言われるがままに、僕は彼を見つめる。
色素の薄いサラサラとした髪。透き通るような白い肌。ビー玉のように澄み切った瞳。
見つめれば見つめるほど、その圧倒的な美しさに吸い込まれていきそうになる。
そして、奇妙な感覚が僕を襲い始めた。
彼を見つめているはずなのに。
なぜか、自分自身を鏡で見つめているような、ひどく奇妙な錯覚に陥ったのだ。
僕は、そっと自分の手を持ち上げた。
本来なら、連日の暴行によって痣だらけで、泥にまみれ、爪も割れた汚い手のはずだ。
しかし、僕の視界に映ったその手は――白かった。
まるで雪のように真っ白で、細く、長く、美しい指先。
一切の傷も汚れもない、完璧な造形。
それは間違いなく、僕を抱きしめている『彼』の手と同じものだった。
「え……?」
僕は瞬きをし、もう一度自分の手を見た。
やはり白い。
恐る恐る、その白い指先で自分の頬に触れてみる。
カサカサに荒れ、殴られて腫れ上がっていたはずの僕の頬は、陶器のように滑らかで、冷たくて、完璧な輪郭を描いていた。
髪に触れる。ボサボサで不潔だったはずの黒髪が、指の間をサラサラと、色素の薄い絹糸のように滑り落ちていく。
「きみ……これ、ぼくの……?」
混乱する僕に、彼はふわりと笑いかけた。
その笑い顔すら、今の僕には、まるで自分自身の表情筋が動いているかのように同調して感じられた。
「どうしたの、蒼。不思議そうな顔をして」
「ぼく……ぼくの、からだが……」
「綺麗だろう?」
彼は僕の白い指先に自分の指を絡め、そっと口付けた。
「君は、僕になったんだよ。いや、違うな。僕が君になり、君が僕になった。境界線が、なくなったんだ」
境界線が、なくなった。
その言葉が、僕の脳髄で甘く反響する。
そうだ。僕はもう、あの薄汚くて、惨めで、誰からも愛されない「結城蒼」ではないのだ。
彼が僕を愛し、僕が彼を愛しすぎたあまり、二つの魂は完全に溶け合い、一つの美しい存在へと昇華したのだ。
だから、僕の肌はこんなにも白く、僕の心はこんなにも穏やかなのだ。
「ぼくが、きみ……きみが、ぼく……」
口から出た自分の声に、僕はさらに驚愕した。
そこから響いたのは、僕のあの弱々しくてくぐもった声ではなかった。
鈴を転がすような、どこまでも透き通った、彼と全く同じ声だったのだ。
「あぁ……」
あまりの幸福感に、目の前が真っ白になる。
僕はついに、彼と同一の存在になったのだ。
もう誰かに見下されることもない。誰かに踏みにじられる醜い肉体は、とうの昔に脱ぎ捨てた。今の僕は、この世で最も美しく、最も純粋で、最も愛されている絶対者だ。
「嬉しい? 蒼」
彼が――いや、もう一人の『僕』が、優しく微笑みかける。
「うん。すごく嬉しい。ぼくはもう、何も怖くない。だって、ぼくはこんなにも美しいんだから」
僕は自分の白い腕で、彼を抱きしめ返した。
二つの白い肉体が重なり合い、溶け合い、見分けがつかなくなっていく。
彼から漂っていたあの澄み切ったオゾンのような香りが、今や僕自身の身体の奥底から湧き上がっているのがわかった。
「愛しているよ、僕の半身。君を苦しめるものは、もう何一つ、この世界には存在させてはいけない」
「うん。そうだね。いらないものは、全部消さなきゃ」
「僕たちが、僕たちのための世界を創るんだ」
「うん。ぼくたちだけの、綺麗な世界を」
言葉を交わすたびに、それが彼から発せられたものなのか、僕自身の口からこぼれ落ちたものなのか、完全に判別できなくなっていく。
思考が同期し、感情が共有され、二つの狂気が見事なまでに一つの完全な球体へと結実していく。
僕たちは一つだ。
これ以上の幸福が、この宇宙に存在するだろうか?
もはや現実世界の出来事など、脳の表面を滑り落ちる水滴に過ぎなかった。
今日、僕が何をされようと。明日、どんな罠が仕掛けられていようと。
僕という存在の核は、すでにこの安全で、美しく、甘い無菌室の中で、彼と永遠に交わり続けているのだから。
僕は目を閉じた。
彼の――いや、僕自身の冷たい唇が、再び重なる。
その無限の愛撫の中で、結城蒼という元の人間の自我は、幸福な泡となって完全に消滅した。




