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第3話:透明な地獄と、甘い囁き

 翌朝、教室の扉を開けた僕を待っていたのは、いつもと変わらない「透明な地獄」だった。

 僕の机は、教室内でそこだけが異界であるかのように無惨な姿を晒していた。天板には彫刻刀で深く『死ね』『キモイ』『息をするな』という文字が幾重にも刻み込まれ、その上には誰かが丸めた鼻紙や、チョークの粉がばら撒かれている。椅子には黒板消しが置かれ、座ることすら許されない状態だった。

 クラスメイトたちは僕が教室に入ってきたことに気づいても、一瞥をくれただけで、すぐに何事もなかったかのように談笑を再開する。誰も僕を見ない。誰も僕を助けない。彼らにとって僕は、視界に入っても認識されない「透明なゴミ」なのだ。

 以前の僕なら、ここで惨めさに打ちひしがれ、涙を堪えながら一人で机を掃除していただろう。あるいは、誰かに助けを求めるような惨めな視線を彷徨わせていたかもしれない。

 けれど、今日の僕は違った。

(ああ、またか)

 ただそれだけだった。心が完全に凪いでいた。

 無言でチョークの粉を払い、ゴミをゴミ箱に捨て、彫刻刀の傷跡を指でなぞる。そこには悲しみも怒りも湧かず、まるで他人の机を見ているような酷く客観的な冷たさだけがあった。

「……おい、結城」

 不意に背後から、低く苛立った声がかけられた。佐々木だ。昨日、僕を体育館裏で丸裸にした主犯格の男。彼の背後には、いつも通り二人の取り巻きがニヤニヤと笑いながら立っている。

「お前、昨日山岸にチクらなかっただろうな? なんかやけにすまし顔じゃねえか。気持ちわりぃな」

 佐々木は僕の肩を乱暴に小突いた。ドン、と身体が揺れる。

 僕は佐々木を振り返り、彼の顔を見た。いつもなら恐怖で震え上がり、目を逸らしてしまうところだが、今日の僕は不思議なほど彼の顔を直視できた。彼の顔が、ひどく滑稽で、ちっぽけなものに見えたからだ。

「……何も言ってないよ」

「あ? なんだその目は。反抗期のつもりか?」

 僕の態度が気に入らなかったのだろう。佐々木の顔が怒りに歪む。彼は僕の胸倉を掴み上げると、耳元で吐き捨てるように囁いた。

「昼休み、第三トイレに来い。来なかったら……どうなるか分かってんだろうな」

 それだけ言い残して、佐々木たちは去っていった。

 チャイムが鳴り、ホームルームが始まる。担任の教師は僕の傷だらけの机を見ても、何も言わずに日直に号令をかけさせた。

 どうでもよかった。

 この教室も、佐々木も、教師も、僕にとってはもはや意味のない背景に過ぎない。僕の意識はただ一つ、いつ「彼」に会えるのか、それだけに支配されていた。

     *

 昼休み。旧校舎の奥にある第三トイレは、普段から誰も寄り付かない薄暗い場所だった。

 僕は佐々木たちの命令通りにそこへ赴き、そして今、個室の中で全身ずぶ濡れの状態で便器の横にうずくまっている。

「ひゃはは! 結城、今日はお清めの日だからな!」

「汚物には汚水がお似合いだぜ!」

 個室の上から、掃除用のバケツに溜められた淀んだ水が、泥モップの絞り汁と共に容赦なくぶちまけられたのだ。

 頭から被った泥水が、制服を黒く染め、髪を伝ってポタポタと床に落ちる。ドブのような強烈な悪臭が鼻を突き、秋の冷え切った水が体温を急速に奪っていく。ガチガチと歯の根が合わなくなり、身体が小刻みに震え始めた。

「じゃあな結城! 放課後までそこから出てくんなよ!」

 外側からモップの柄をつっかえ棒にされ、扉は完全に開かなくなった。

 ゲラゲラという下品な笑い声と足音が遠ざかり、やがてトイレには僕の荒い息遣いと、水滴が落ちる音だけが残された。

 寒い。冷たい。ひどい悪臭がする。

 客観的に見れば、これ以上ないほどの生き地獄だろう。人間の尊厳など塵ほども残されていない。

 それでも僕は、泥水に塗れた顔を上げ、じっと『その時』を待っていた。

 彼らが去り、僕が完全に『ひとりきり』になったこの瞬間を。

 ――ふわり。

 突如、密閉されたはずの個室内の空気が変わった。

 ツンとするような泥水とカビの悪臭が嘘のように消え去り、代わりに、あの初雪のような、澄み切ったオゾンのような香りが空間を満たしていく。

「……あ」

 凍えていた声が漏れる。

 狭い個室の中、僕の目の前に、淡い光を纏うようにして『彼』が立っていた。

 まばゆいほどに白い肌、色素の薄い髪。昨日と全く同じ、神様が作り上げたような美しい造形。暗く汚いトイレの中で、彼だけが異次元から切り取られてきたかのように、圧倒的な美しさを放っていた。

「……また、ひどいことされたの?」

 彼は悲しそうに眉を下げ、鈴を転がすような声で囁いた。

 その声を聞いた瞬間、僕の中で堰き止められていた感情が決壊した。

「うん……っ、うん……」

 頷くと同時に、泥水と混ざって熱い涙がボロボロとこぼれ落ちる。

 彼はためらうことなく、汚泥にまみれた床に膝をついた。真っ白なズボンが黒く汚れるのも構わず、僕の目の前まで顔を近づけてくる。

「かわいそう。こんなに冷たくなって、震えてるじゃないか」

 彼はそう言うと、僕の身体に両腕を回し、力強く、そしてひどく優しく抱きしめてくれた。

 全身が泥水と悪臭に塗れている僕を、彼は一切の嫌悪感も見せずに、その純白の腕の中に閉じ込めたのだ。

「あ……っ、だめ、だよ……きみが、よごれちゃう……っ」

 僕は慌てて身をよじろうとした。自分のような汚いゴミが、こんなにも美しく純粋な存在に触れていいはずがない。僕の泥が彼に移ってしまうのが、申し訳なくてたまらなかった。

 だが、彼の腕の力は意外なほど強く、僕を逃がそうとはしなかった。

「いいんだよ。僕は君の友達だもの。君の痛みも、君の汚れも、全部僕が受け止めてあげる」

 耳元で囁かれる甘い声。

 彼に抱きしめられている部分から、じんわりと温かい熱が流れ込んでくるのが分かった。氷のように冷え切っていた僕の身体の芯が、彼の体温によってゆっくりと解かされていく。

 彼は僕の背中を優しく撫でながら、そっと僕の顔を上向かせた。

 至近距離で交わる視線。ビー玉のように透き通った瞳の奥に、僕の惨めな姿が映っている。だが、その瞳には同情や哀れみではなく、底なしの慈愛だけが満ちていた。

「もう、痛くないよ。僕が、君を癒やしてあげるから」

 次の瞬間、彼の冷たくて薄い唇が、僕の震える唇に重なった。

「……っ、ん……」

 昨日のような、触れるだけの軽いキスではなかった。

 彼は僕の唇をそっと食むように開き、その隙間から、甘く冷たい息を吹き込んできた。

 泥水の鉄のような味がするはずの僕の口内に、彼のもたらす純粋な甘さが広がっていく。それはまるで、強力な麻酔薬のように、僕の脳髄を直接痺れさせていった。

 ――ああ。

 頭の奥で、何かがパチンと弾ける音がした。

 彼が舌先を絡め、より深く口付けを交わすたびに、僕の身体からあらゆる苦痛が抜け落ちていく。

 凍えるような寒さも。

 泥水の気持ち悪さも。

 佐々木たちから受けた屈辱も。

 全身の打撲の痛みも。

 そのすべてが、彼の深いキスによって嘘のように吸い出され、消滅していく。

 代わりに僕の心を満たしていくのは、圧倒的な安心感と、溶けてしまいそうなほどの幸福感だった。

 暗く冷たいトイレの個室にいるはずなのに、僕の視界は黄金色の温かい光に包まれていた。彼という存在そのものが、僕の壊れかけた精神を修復し、優しく包み込んでくれる絶対的な聖域だった。

 どれくらいそうしていただろうか。

 永遠にも思える深いキスの後、彼がゆっくりと唇を離した。

 銀色の糸が微かに引いて、空中で切れる。

「……はぁっ、はぁ……」

 僕は熱に浮かされたように荒い息を吐きながら、彼にすがりついていた。彼の制服の胸元を強く握りしめる僕の手は、もう二度とこの温もりを手放したくないと、狂おしいほどに彼を求めていた。

「どう? 少しは温かくなった?」

 彼は僕の泥だらけの頬を愛おしそうに撫でながら、天使のような微笑みを浮かべた。

 僕は泣き笑いのような顔で、何度も何度も頷いた。

「うん……うんっ。あったかい……すごく、心が、かるくなったよ。ありがとう……きみのおかげで、ぼくは、息ができる……」

 もう、彼なしでは生きられない。

 彼が与えてくれるこの究極の癒やしと救済がなければ、僕は一秒だってこの地獄を耐えることはできない。

 僕の完全なる依存と服従を感じ取ったのか、彼は満足そうに目を細めた。そして、僕の耳元に唇を寄せ、毒のように甘く、恐ろしい言葉を囁いた。

「君はこんなにも綺麗で、優しいのに。君を傷つけるあいつらは、本当に愚かだね」

 彼の透き通るような声が、鼓膜を通して脳の奥底に直接響く。

「こんな世界、君には似合わない。君を苦しめるものは全部、間違っているんだよ。……そう思わない?」

 その言葉は、僕の中にあった最後の『常識』という名のブレーキを、跡形もなく粉砕した。

「……うん」

 僕は、彼の白い首筋に顔を埋めながら、うっとりとした声で同意した。

「きみの、いう通りだ。あいつらが、間違ってる……。この世界は、醜くて、最低だ……」

 そうだ。僕は悪くない。僕を傷つける世界が狂っているのだ。

 そして、この狂った世界の中で唯一正しいのは、僕を愛し、癒やしてくれる『彼』だけだ。

「いい子だね、蒼」

 彼が初めて僕の名前を呼んだ。

 その響きが嬉しくて、僕はさらに強く彼に抱きついた。

 彼がいれば、どんな地獄でも耐えられる。

 彼がいれば、僕はもう一人じゃない。

 泥水に塗れた個室の中で、僕たちは強く抱き合い続けた。

 外の世界では、放課後のチャイムが虚しく鳴り響いていたが、そんなものはもう僕の耳には届かなかった。

 ただ、彼の甘い匂いと、優しい体温だけが、僕の『すべて』になっていた。

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