第2話:僕だけの特権
フェンスの外側、吹きすさぶ風の中で、僕の時間は完全に止まっていた。
「かわいそうに。いっぱい、痛かったんだね」
美しい少年のその一言が、僕の中で張り詰めていた最後の糸を断ち切った。
ポロポロと、とめどなく涙が溢れてくる。泥と血で汚れた頬を濡らし、コンクリートの縁へと落ちていく。死ぬことすら恐れなかったはずなのに、彼の手のひらから伝わる微かな温もりが、僕の身体に「生きたい」という生物としての本能を無理やり呼び覚ましていくようだった。
「……っ、あ……ぁ……」
声にならない嗚咽が漏れる。
フェンスの金網を握りしめていた指から、ゆっくりと力が抜けていく。もし彼がここで僕から手を離せば、僕はそのままバランスを崩して真っ逆さまに落下していただろう。
だが、彼はそうしなかった。
僕の頬に添えていた手を滑らせ、フェンスの隙間から僕の手首をしっかりと、しかしひどく優しく掴んだのだ。
「こっちへおいで」
透き通るような声。有無を言わせぬ、けれどひどく甘い引力。
僕は操り人形のように頷き、震える足を動かして、再びフェンスを乗り越えた。
内側の安全な場所、屋上のコンクリートの床に足がついた瞬間、極度の緊張と安堵から膝から崩れ落ちた。
「はぁっ、はぁっ、うぅ……っ」
冷たい床に四つん這いになり、泥だらけの身体を丸めて泣きじゃくる。
惨めだった。死ぬ勇気すら削がれ、ただ痛みに耐えて泣くことしかできない自分が、どうしようもなく情けなかった。
そんな僕の傍らに、彼が静かにしゃがみ込む気配がした。
「泣かないで。君が泣くと、僕も悲しい」
衣擦れの音がして、彼が僕の顔を覗き込んだ。
至近距離で見る彼の顔は、やはり人間離れした美しさを保っていた。色素の薄いサラサラとした髪が夕風に揺れ、ビー玉のように澄み切った瞳が、僕の醜い姿を真っ直ぐに映し出している。
彼は自分の真っ白な袖口が汚れることなど少しも気にする様子を見せず、僕の額から流れる血を、その白い指先でそっと拭った。
「どうして……」
ひび割れた唇から、ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「どうして、とめて、くれたの……? ぼくなんて、生きてたって、なんの意味も……」
「意味ならあるよ」
彼は即答した。そして、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
「君は、僕を見つけてくれた。それだけで、君がこの世界に存在する意味としては十分すぎるじゃないか」
理解できなかった。
僕が彼を見つけた? いや、彼が僕を見つけたのだ。この誰もいない屋上で。
混乱する僕の思考をよそに、彼はさらに顔を近づけてきた。
ふわりと、どこか冷たくて甘い、初雪のような、あるいはオゾン層のような、不思議な香りが鼻腔をくすぐる。少なくとも、汗や泥や血の匂い――人間の生々しい匂いではなかった。
彼の手が、僕の後頭部と顎を優しく包み込む。
そして。
ちゅっ、と。
微かな水音と共に、僕の唇に、ひどく柔らかくて冷たいものが重なった。
「……えっ?」
頭の中が真っ白になった。
同性の、しかも今日初めて会ったばかりの相手からのキス。
普通なら、驚愕するか、あるいは突き飛ばして嫌悪感を露わにする場面だろう。特に僕は、さっきまで同級生たちに丸裸にされ、尊厳を徹底的に蹂躙されたばかりだった。他者との接触そのものに、強い恐怖と拒絶反応を示してもおかしくない精神状態だった。
だが、違った。
嫌悪感など、微塵も湧かなかった。
唇から伝わる彼の体温は少し低かったが、不思議なほど心地よかった。
それどころか、キスをされた瞬間、僕の身体を覆っていた泥のような重い疲労や、全身の打撲の痛み、そして何より、心臓にこびりついて離れなかった真っ黒な絶望の塊が、ふっと溶けて消えていくような感覚に陥ったのだ。
温かい。
そして、あまりにも、心が軽い。
重力が反転し、空へ向かってふわりと浮き上がってしまいそうなほどの、圧倒的な解放感。
彼との接触は、僕にとっての鎮痛剤であり、麻薬だった。
数秒にも、永遠にも感じられたその口付けが静かに離れると、僕は熱に浮かされたように彼を見つめ返していた。
「……少しは、痛いの飛んでいった?」
彼は悪戯を成功させた子供のように、無邪気に笑って小首を傾げた。
僕は呆然としたまま、何度も頷いた。嘘ではない。本当に、身体の痛みも心の苦しさも、嘘のように軽くなっていたのだ。
「きみ、は……一体、誰なの?」
「僕?」
彼は立ち上がり、西日を背にしてクルリと身を翻した。逆光になり、彼の表情が影に沈む。ただ、その輪郭だけが神々しく光を放っているように見えた。
「僕はね、君の友達だよ。君がずっと望んでいた、君だけの――」
バンッ!!
その時、彼が言葉を言い終わるよりも早く、背後にある屋上の鉄扉が乱暴に蹴り開けられた。
ビクッと肩を震わせ、僕は振り返る。
「おい! 誰かいるのか!」
現れたのは、生活指導を担当している体育教師の山岸だった。
常に竹刀を持ち歩き、威圧的な態度で生徒をねじ伏せる男。僕がいじめられていることにも薄々気づいているくせに、「お前にも原因があるんじゃないか」と鼻で笑って見て見ぬふりをしている、唾棄すべき大人の一人だった。
「あっ、や、山岸先生……」
僕は反射的に身をすくませた。
屋上は立ち入り禁止だ。こんな泥だらけで衣服の破れた状態でここにいるのを見つかれば、また何を言われるかわからない。いじめの事実を追及されるどころか、逆に僕が厄介事を起こしたとして怒鳴られるのがオチだ。
「なんだ、結城じゃないか。お前、こんな所で何やってるんだ。屋上は立ち入り禁止だろうが!」
案の定、山岸は僕の惨状を一瞥したものの、心配するどころか眉間に皺を寄せて怒鳴りつけてきた。
「それに、なんだその汚い格好は。どこで喧嘩でもしてきたのか。まったく、影が薄いくせに面倒ばかり起こしやがって……」
「ち、ちが、これは……」
言い訳をしようとして、ふと気づく。
山岸の視線が、僕だけに向けられていることに。
「……先生」
「なんだ」
「あの……彼、は……」
僕は視線だけで、僕のすぐ数メートル先に立っているはずの『美しい少年』を示した。
山岸の立ち位置から見れば、少年の姿は完全に視界に入っているはずだ。それなのに、山岸は少年に一切の注意を払っていない。
「彼? 誰の話をしてるんだ。お前、頭でも打ったのか」
「え……?」
山岸は不機嫌そうに舌打ちをし、周囲を見渡した。
その視線は、少年の身体を『透過』して、背景のフェンスを捉えていた。
(見えて……いない?)
背筋にゾクッと冷たいものが走る。
恐怖ではない。それは、ある種の強烈な優越感と、狂気にも似た歓喜の震えだった。
僕はゆっくりと、少年のほうへ視線を戻した。
少年は山岸の背後に立ち、僕に向かって悪戯っぽく微笑んでいた。そして、人差し指を自分の薄い唇に当てて、『内緒だよ』とでも言うようにウィンクをしたのだ。
――『僕はね、君の友達だよ。君がずっと望んでいた、君だけの』
先ほどの彼の言葉が、脳内でリフレインする。
そうだ。彼は、他の誰にも見えない。この醜く腐りきった世界に生きる無価値な人間たちには、彼のこの神聖なまでの美しさを知覚することすら許されていないのだ。
僕だけだ。
僕だけが、彼を見ることができる。彼に触れることができる。彼から、あの甘く温かいキスを与えられる権利を持っている。
「おい、聞いてるのか結城! さっさと降りてこい。反省文を書かせるからな!」
山岸の怒声が響くが、今の僕には路地裏の犬の遠吠えほどにも感じられなかった。
もう、誰も怖くない。
どんなにひどい暴力を受けようとも、どんな理不尽な言葉を浴びせられようとも、僕の心は決して折れることはない。
なぜなら、僕には『彼』がいるからだ。
「……はい、先生。今、行きます」
僕はゆっくりと立ち上がり、乱れた衣服を整えた。
泥だらけの顔に、不気味なほどの笑みが浮かんでいるのを自覚していたが、抑えることはできなかった。
山岸の後を追って鉄扉をくぐる直前、もう一度振り返る。
屋上にはもう、誰もいなかった。
ただ、赤い夕焼けの空と、生ぬるい風が吹いているだけ。
しかし、唇には確かに、彼の冷たくて甘い感触が残っていた。
この日から。
僕の世界は、彼という強烈な光によって、静かに、そして決定的に狂い始めたのだ。




