第1話:破滅のプロローグと、天使との邂逅
光。
ただ、圧倒的なほどの純白の光に満ちていた。
痛みも、苦しみも、他者の悪意すらも届かない、完璧に隔離された無菌室のような空間。
その中心で、彼が微笑んでいた。
透き通るような白い肌、色素の薄いサラサラとした髪、そして、ビー玉のように澄み切った瞳。造物主が気まぐれに生み出した奇跡のように、彼はあまりにも美しかった。人間というよりは、宗教画から抜け出してきた天使という表現の方がしっくりくる。
彼は僕の頬にそっと手を伸ばし、鈴を転がすような、どこまでも甘く優しい声で囁いた。
「君が望むように、この世界のすべてを消し去ってあげるよ」
その言葉は、干からびてひび割れた心に染み渡る、一滴の甘い毒だった。あるいは、究極の救済。
ああ、やっと終わるんだ。
僕の目から、安堵の涙がポロポロとこぼれ落ちる。彼は僕の涙をその美しい指先で拭い、もう一度、ふわりと笑った。
――すべてが白く、優しく塗り潰されていく。
これが、僕の望んだ世界の終わり。
*
……ガンッ!!
後頭部に走った鈍い衝撃と同時に、目の前で火花が散った。
強烈な痛みによって、意識が急激に現実へと引き戻される。鼻の奥にツンと血の匂いが広がり、口の中には錆びた鉄のような味がした。
「おい結城、どこ見てんだよ。俺が話してんの聞こえなかったのか?」
耳障りな笑い声と、冷たいコンクリートの感触。
ここは光に満ちた場所なんかじゃない。薄暗く、湿気た土とカビの匂いが漂う、学校の体育館裏だ。
結城 蒼――それが僕の名前。
そして今の僕の現状は、見下ろしてくる三人の同級生たちの前で、無様なカエルのように地面に這いつくばっている、というものだった。
「あーあ、せっかくの顔が台無しじゃん。ま、元から陰気臭くてキモいけどさ」
主犯格の男、佐々木が僕の髪を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせる。そのまま無防備な腹部に、強烈な蹴りが見舞われた。
「ぐっ……!」
肺から酸素が強制的に追い出され、声にならない呻きが漏れる。胃液が込み上げてくるのを必死に呑み込んだが、それを合図にしたかのように、残りの二人からも容赦のない蹴りが飛んできた。
背中、脇腹、太もも。
硬いローファーのつま先が、僕の身体に次々と鈍い痛みを刻み込んでいく。痛い。痛い。痛い。でも、抵抗する気力なんてとうの昔に擦り切れていた。
ただ亀のように丸まり、嵐が過ぎ去るのを待つ。それが、僕がこの半年間で身につけた唯一の処世術だった。
僕が彼らの標的になった理由に、大した意味はない。ちょっと目が合った時の態度が気に入らなかったとか、声が小さくてイラつくとか、そんな取るに足らない理由だ。彼らにとって僕は、日常のストレスを発散するための、都合の良いサンドバッグに過ぎなかった。
教師は見て見ぬふりをする。親に言えば悲しませるだけだと、最初は隠していた。そうやって孤独に耐え忍んでいるうちに、彼らのエスカレートする悪意は、僕から『人間としての尊厳』を根こそぎ奪い取っていった。
「おい、つまんねーな。ダンボール殴ってる方がまだリアクション良いぜ」
佐々木が舌打ちをして、僕を見下ろした。その目には、路傍の石以下の、単なる『おもちゃ』を見るような昏い愉悦が宿っている。
「そうだ、結城。お前、暑くない? 今日は特別に涼しくしてやるよ」
その言葉の意味を理解するより早く、二人の取り巻きが僕の腕を背後に押さえつけた。
「な、なにを……」
「いいから脱げよ!」
乱暴に制服のボタンが引きちぎられ、ワイシャツが剥ぎ取られる。
抵抗しようと身をよじったが、頭を靴底で踏みつけられ、動きを封じられた。ズボンのベルトを引き抜かれ、下着ごと全てを引きずり下ろされる。
「……っ!」
秋の冷たい風が、容赦なく素肌を撫でた。
丸裸にされた僕を見て、三人は腹を抱えて爆笑した。
「うわっ、マジで貧相な体! キモっ!」
「写真撮っとこうぜ! クラスの裏グループに流したらウケるだろ!」
カシャッ、カシャッと、無機質なスマートフォンのシャッター音が響く。
それは、僕の中で辛うじて繋ぎ止められていた何かが、完全に音を立てて崩れ去っていく音だった。
「ほら結城、カメラ向かって笑えよ! あ、ついでに土下座な! 『僕みたいなゴミが生きていてごめんなさい』って言いながらな!」
笑い声が耳鳴りのように反響する。
僕は、震える裸の身体を折り曲げ、冷たいコンクリートに額を擦り付けた。ザラザラとした地面の感触が、直接肌に伝わってくる。
「……ぼくみたいな、ゴミが、いきていて、ごめんなさい……」
「声が小せえよ!」
再び頭を踏みつけられる。コンクリートの破片が額に食い込み、たらりと温かい血が流れるのを感じた。
屈辱で涙が出る時期は、とうに過ぎていた。ただ、頭の奥で世界が急速に色褪せ、冷め切っていく感覚だけがあった。
もう、嫌だ。
こんな世界、もう。
*
「あーあ、飽きた。帰ろうぜ」
どれくらいの時間が経っただろうか。満足したらしい佐々木の一声で、地獄のような時間は唐突に終わりを告げた。
「じゃあな結城。明日もよろしく頼むわ」
彼らの足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなるまで、僕はコンクリートの上で身動き一つできなかった。
静まり返った体育館裏。遠くから、吹奏楽部の練習するトランペットの音が呑気に聞こえてくる。まるで、僕の存在などこの世界のどこにもないかのように、日常は平然と回っている。
僕はゆっくりと身を起こし、泥と靴の跡だらけになった制服を拾い集めた。
ちぎれたボタン。破れたシャツ。それを泥だらけの体の上に纏う。全身が軋むように痛み、額からの血が目に入って視界を赤く染める。
不思議と、悲しくはなかった。怒りも湧かなかった。
ただ、圧倒的な徒労感と、透明な空虚さだけが心の中を満たしていた。
「……終わらせよう」
ポツリと、自分の口からこぼれた言葉。
それに驚きはしなかった。ずっと、頭の片隅にあった選択肢だ。ただ、それを実行するだけの理由が、今日、完全に致死量に達しただけだ。
これ以上、明日を迎える理由がない。
這うようにして立ち上がり、僕は足を引きずりながら歩き出した。
向かう場所は、一つしかない。
*
放課後の校舎は、どこか浮かれた空気に包まれていた。
部活に向かう生徒たち、楽しげに談笑する男女とすれ違う。僕のボロボロの姿を見て、一瞬ギョッとした顔をする者もいたが、誰も声をかけてはこない。関わり合いになりたくなくて、慌てて目を逸らしていく。
どうでもいい。もう、誰の顔も認識できない。他人も、教室も、廊下のポスターも、まるで色褪せた古い映画のように白黒に見えた。
階段を上る。
一段上るごとに、足に鉛の重りがついているように重くなる。身体中が悲鳴を上げている。それでも、立ち止まるという選択肢はなかった。引き返した先に待っているのは、終わりのない地獄だけなのだから。
四階。そして、さらにその上。
屋上へ続く重い鉄扉の前に立つ。普段は施錠されているはずだが、サボり癖のある不良生徒が細工をしているのか、鍵は壊れたままになっていた。
重いノブを回し、体重をかけて押し開ける。
ギィッ……という軋む音と共に、強い風が僕の体を煽った。
夕暮れ時の空は、毒々しいほどに赤く染まっていた。
眼下には、見慣れた街並みがジオラマのように広がっている。遠くに見えるビル群も、走っている車も、すべてがちっぽけで無価値に思えた。
フェンスの前に立つ。
下を覗き込むと、目が眩むような高さだ。硬く冷たいコンクリートの地面が、僕を待っているように見えた。
怖い、とは不思議と思わなかった。
あそこで明日も裸にされ、土下座させられ、人間の尊厳を奪われ続ける日々に比べれば、この高さなど何ほどの恐怖でもない。一瞬の痛みの後には、完全な無が待っている。それは僕にとって、至上の救済だった。
泥だらけのローファーを脱ぎ、揃えて置く。
冷たいフェンスの金網に指をかけ、足をかける。
一段、また一段と登っていく。
風が強くなる。あと一歩で、フェンスの向こう側だ。
足を乗り越えさせ、フェンスの外側、わずか十センチほどの狭いコンクリートの縁に立つ。
手は後ろ手にフェンスの網目をきつく掴んでいる。これを離せば、重力が全てを解決してくれる。
目を閉じる。
冷たい風が、額の血を乾かしていくのを感じた。
息を深く吸い込む。
(さようなら、クソみたいな世界)
指の力を抜き、虚空へと身を投げ出そうとした、その瞬間だった。
「――何をしているの?」
鼓膜を揺らす、鈴を転がすような声。
ビクッと肩が跳ね、反射的にフェンスを掴む手に力が入った。
振り返る。
誰もいないはずの屋上。そこには――
光が、あった。
夕暮れの赤黒い光の中で、そこだけが切り取られたように白く輝いていた。
いや、彼自身が発光しているわけではない。だが、周囲の薄暗闇を拒絶するかのように、彼という存在だけが鮮烈な色彩と透明感を放っていたのだ。
「え……?」
フェンスの内側に立っていたのは、一人の少年だった。
僕と同じくらいの背丈。透き通るような真っ白な肌に、色素の薄いサラサラとした髪。学校の制服のようなものを着ているが、少なくともこの高校のものではない。
何より目を奪われたのは、その顔立ちだった。
人間離れした、神様が精魂込めて作り上げた彫刻のように、恐ろしいほどに整った顔。そして、ビー玉のように澄み切った、底知れぬ深さを持つ瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。
風が彼の髪を揺らす。
あまりの美しさに、僕は一瞬、自分がすでに落ちて死んでおり、ここは天国なのだと錯覚した。
「こんなところで、風に吹かれて。……寒くないの?」
彼は小首を傾げ、ふわりと微笑んだ。
幻覚だろうか。それとも、僕の壊れた脳が見せた妄想だろうか。
血と泥に塗れた醜い僕とは対極にある、穢れを一切知らない純白の存在。
彼はゆっくりと近づいてくると、フェンス越しに、僕の泥だらけの頬にそっと、白く細い指先を這わせた。
「かわいそうに。いっぱい、痛かったんだね」
その瞬間。
ずっと枯れ果てていたはずの涙腺から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
温かい。彼の指先も、その言葉も。
この冷たくて残酷な世界で、僕が今日初めて触れた、そして半年ぶりに向けられた『優しさ』だった。
張り詰めていた死への決意が、彼の手の温もりによってドロドロと溶け出していく。
「きみ、は……だれ……?」
震える、掠れた声で問う。
美しい少年は答えなかった。ただ、酷く愛おしいものを見るような目で僕を見つめ、悪戯っぽく微笑を深めただけだった。
これが、僕と彼の出会い。
そして、僕の狂った世界が、甘美な終焉へと向かうための――始まりの合図だった。




