1.6:幕間
◆ 桜庭ミユ視点
ライブまであと二十一日。
桜庭ミユは床に転がっていた。ジャージ姿、髪はぐしゃぐしゃ、化粧も落とした完全なオフ。
誰にも見せられない姿だ。
「むりぃ……」
呟きながら持ち上げたスマホの画面には、仕事の通知が容赦なく並んでいる。
「人気者も大変なんですよーだ」と誰もいない部屋で愚痴をこぼす。
少し前までなら、ここにすかさず連絡をくれる人がいた。
『確認しました』『問題ありません』『早めに体休めてくださいね』
そんなメッセージをいつも送ってくれた人
――元マネージャーだ。
ミユはトーク画面を開く。それが最後のやり取りだった。
事件の詳しいことは知らない。
ただ、彼は突然いなくなってしまった。それだけだ。
「ほんとさぁ……」
画面を見つめ、小さく呟く。
「責任感だけは無駄に強かったんだから」
思わず笑ってしまう。
本人がいたら「そんなことないです」と絶対に否定する、そんな確信があった。
「ちゃんと休めって、言えばよかったかな」
ぽつりと漏らした言葉は、夜の静寂にすぐ消えた。
今さら後悔しても仕方ない。
ミユはのそりと立ち上がり、ストレッチを始める。
ライブは待ってくれない。悲しくても、辛くても、立ち止まれないのがアイドルだ。
「よし」
小さく気合を入れる。
そして彼女はまた、誰も見ていない部屋で、誰にも知られない努力を積み重ね始めた。
◆ 神谷由紀視点
布団から少しだけはみ出た小さな足を、由紀は苦笑しながら掛け直した。
「風邪ひくよ」
もちろん真白から返事はない。もう夢の中だ。
部屋の明かりを落とし、ようやく訪れた一人の時間。由紀はキッチンへ向かった。
洗い物、洗濯物、明日の準備、仕事の確認。
シングルマザーになってからずっと、終わらないタスクを淡々とこなすことには慣れていた。
時計を見ると、もうすぐ午前一時。「寝ないとなぁ」と呟きながらスマホを開く。
いつものスケジュール、いつもの業務連絡。
その中に、一つだけ消せずに残っている名前があった。トーク履歴を確認する。
『了解しました』『確認します』『現場向かいます』
並んでいるのは、そんな四角四面な言葉ばかり。
由紀は少し目を細めた。
「真真面目だったなぁ……」
本当に、馬鹿みたいに真面目な部下だった。
頼んだ仕事はきっちりこなし、残業をしても、自分が損をしても絶対に文句を言わなかった。
だから、つい甘えて頼りすぎてしまっていた。
「もっと断ればよかったのに」
もし本人がここにいたら、きっと困った顔をして、結局その仕事を引き受けていただろう。
そんな姿がありありと想像できた。
スマホを閉じ、静寂が広がる。ふと、あの場所に花を供えた時のことを思い出す。
何度行っても慣れない、あの冷たいアスファルト。
「厳しくしすぎたかな……」
仕事だから、成長してほしかったから、期待していたから厳しくした。
その判断が間違っていたとは思わない。でも、もっと言える言葉があったはずだ。
「ありがとう」とか、「助かってる」とか、「よくやってる」とか。
いつでも言えると思っていた。次があると思っていた。
だけど違った。終わる時は、何の前触れもなく突然終わるのだ。
「お疲れさま」
今さら届くわけもない。それでも、上司として最後くらいは「ちゃんと頑張ってたよ」と伝えたかった。
窓の外を見やる。
夜の街にはたくさんの灯りが輝き、誰もが明日を当たり前のように迎える気でいる。
きっと自分もそうだ。
だからこそ、伝えられる時に伝えよう。褒められる時に褒めよう。心からそう思った。
由紀は立ち上がる。明日も仕事だ。真白を起こして、朝ご飯を作って、会社へ行くいつもの毎日。
それでも、少しだけ、前より優しくなれる気がした。
「おやすみ」
誰に向けた言葉だったのか、由紀自身にも分からなかった。ただ、その声はどこか穏やかだった。
(窓の外で、小さな一匹の蚊が死んだことなど誰も知らない。
それでも、彼は確かに誰かの記憶に残っている。それだけで、少しだけ救われる気がした。)




