1.5:蚊
夜風が吹く。気持ちいい。
自由だ。何にも縛られない、何にも追われない。
前世では、ずっと何かに追われていた気がする。
能力、仕事、評価、失敗、未来。
でも今は違う。何もない。ただ、飛んでいる。
「……前の人生も、悪くなかったのかもしれないな」
ぽつりと呟く。
ミユも、由紀さんも、みんな見えないところで何かを抱えてちゃんと頑張っていた。
だったら、それを支えようとした俺の人生も、少しくらいは意味があったのかもしれない。
そんな風に思えた。
ふと、明るい光が見えた。コンビニだった。
自動ドアが開くたびに漏れる光へ、なんとなく近づいてみる。
店の前では、制服姿の若い男がゴミ箱の周りを掃除していた。
真面目そうな顔の、前世では関わりのなかった知らない男だ。
彼は散らばったレシートや空き缶を、面倒そうな顔もせず一つずつ丁寧に、黙々と拾い集めていく。
(別に、そこまでしなくてもいいだろうに)
その時、男が疲れたような、でもどこか優しい顔で空を見上げた。
「お疲れさまです」
振り返りもしない客の背中に、それでも頭を下げる。
主人公は少しだけ考えた。人間って、案外すごいのかもしれない。
誰に見られていなくても、能力なんかなくても、誰かのために頑張るやつは確かにいる。
昔の自分は、それを見ようとしなかっただけなのかもしれない。
風が吹き、主人公は再び飛び上がった。
その時、甘い匂いが鼻をくすぐる。若い女性の、露出した腕。
本能が「血だ、飯だ」と騒ぎ立てる。主人公は迷わず降下し、着地した。
針を伸ばす。ぷす。
――その瞬間、女性の肩がぴくりと動いた。
まずい、と思った時にはもう遅かった。
視界いっぱいに広がる、人間の手の大きな影。飛び上がろうとするが、間に合わない。
(あ――)
パチン。
世界が激しく揺れた。
何が起きたのか分からない。体が潰れ、羽が動かず、音も光も遠ざかっていく。
でも、不思議と怖くなかった。
前の人生の最後は、痛くて、怖くて、悔しくて、何も分からなかった。
でも今は、少しだけ満たされている。
短かった。本当に短かったけれど、面白かった。
空を飛んだ。仲間がいた。意味の分からない先輩もいた。
ミユを見て、由紀さんを見て、真白を見た。少しだけ、人のことを深く知れた気がする。
意識が静かな暗闇へと沈んでいく。その中で、ふとあの能力のことを思い出した。
『転生 レベル1:死んだら記憶を保持したまま転生する』
次はどうなるんだろう。少しだけ、楽しみだった。
そして、意識は完全に沈み――こうして、蚊としての短い生は終わりを迎えた。
◇
次に目を開けた時。
そこは、暗い土の中だった。
狭い、重い。そして、周囲から伝わってくる無数の「仲間」の気配。
(次はなんだ――?)
期待と不安を胸に、新しい物語が動き出そうとしていた。




