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転生観測記  作者: スッタ
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5/8

1.4:蚊

ミユの部屋を後にする。夜風が気持ちいい。

腹だけじゃない、気持ちまで少し軽くなっている。

人間だった頃は見上げる側だった街を、今は羽を震わせて見下ろしている。不思議な気分だった。


その時、また懐かしい匂いを見つけた。

コーヒー、書類、柔軟剤。そして少しだけ、子供の匂い。

主人公は思わず進路を変えた。街灯の薄暗い光の下、見覚えのある背中を見つけたからだ。


(……由紀さん)


神谷由紀。スターリーフプロダクション所属、俺の直属の上司。

正直に言うと、かなり苦手だった。

「もっと先を読んで」「段取りを考えて」「その報告、今じゃないでしょ」。

怒鳴る人ではなかったし理不尽でもなかったが、とにかく厳しかった。


だが、スーツではないラフな格好の彼女は、仕事の時とは全く違う疲れた顔をしていた。

隣には小学校低学年ほどの小さな女の子がいる。娘の神谷真白だ。

シングルマザーだと聞いてはいたが、見るのは初めてだった。

「あ、ごめんね。寒いよね」

真白のマフラーを直し、髪を整える由紀。

そこにいるのは冷徹な上司ではなく、ただの優しい母親だった。


由紀が前を向いた。そこには、静かに、丁寧に花が供えられていた。

主人公の羽が止まる。見覚えのありすぎる場所だった。

ここは、自分が死んだ場所だ。


「真白も手を合わせてくれる?」

由紀の仕草を真似て、小さな娘も手を合わせる。

静寂の中、やがて由紀がぽつりと口を開いた。

「……ごめんね。厳しくしすぎたよね」


消えてしまいそうな、小さな声だった。

違う、そんなことはない。

蚊の口からは出ない言葉が胸の奥に浮かぶ。

彼女は悪くなかった。真摯に向き合ってくれていたのに、俺が受け止めきれなかっただけだ。


真白が小さく尋ねる。「ママ、このひと、おともだち?」

由紀は少しだけ笑って、考えた。「お友達じゃないかな。……仲間、かな」

仲間。そんな風に思ってくれていたのかと、胸が熱くなった。


その時だった。由紀が静かに言った。

「まだ捕まってないしね」


主人公の思考が止まった。捕まってない?

「わるいひと?」と首を傾げる真白に、由紀は「うん、悪い人」と頷いた。


事故じゃなかったのか?

そう思った瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


――夜道。仕事帰り。疲れていて、少し急いでいた。

後ろに、誰かいる。違和感に振り返ろうとした瞬間、背中を襲った凄まじい衝撃と熱。

息が止まり、足がもつれ、アスファルトへ倒れ込む。

視界が回る中、遠ざかっていく足音と走る影。顔は見えなかった。

ただ、圧倒的に怖かった。そこで記憶は切れている。


(……っ!)


主人公は激しく羽を震わせた。事故じゃない。俺は誰かにやられたんだ。

だが、それ以上は思い出せない。


「帰ろうか」

「うん!」

由紀は真白の手を握り、歩き出す。大きな背中と、小さな背中。

二人の後ろ姿をしばらく見送りながら、主人公は思った。


ミユも、由紀さんも、自分が思っていたよりずっと戦っていた。

人はみんな、見えないところで何かを背負っている。

そんな当たり前のことを、俺は死んでから、こんな小さな虫になってから知った。


夜風が吹き抜ける。羽を広げると、少しだけ空が広く見えた。

最初の人生も、前の人生も、大したことはできなかった。それでも、悪くなかったのかもしれない。


そんなことを考えながら、俺は静かに、夜の空へ舞い上がった。

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