1.4:蚊
ミユの部屋を後にする。夜風が気持ちいい。
腹だけじゃない、気持ちまで少し軽くなっている。
人間だった頃は見上げる側だった街を、今は羽を震わせて見下ろしている。不思議な気分だった。
その時、また懐かしい匂いを見つけた。
コーヒー、書類、柔軟剤。そして少しだけ、子供の匂い。
主人公は思わず進路を変えた。街灯の薄暗い光の下、見覚えのある背中を見つけたからだ。
(……由紀さん)
神谷由紀。スターリーフプロダクション所属、俺の直属の上司。
正直に言うと、かなり苦手だった。
「もっと先を読んで」「段取りを考えて」「その報告、今じゃないでしょ」。
怒鳴る人ではなかったし理不尽でもなかったが、とにかく厳しかった。
だが、スーツではないラフな格好の彼女は、仕事の時とは全く違う疲れた顔をしていた。
隣には小学校低学年ほどの小さな女の子がいる。娘の神谷真白だ。
シングルマザーだと聞いてはいたが、見るのは初めてだった。
「あ、ごめんね。寒いよね」
真白のマフラーを直し、髪を整える由紀。
そこにいるのは冷徹な上司ではなく、ただの優しい母親だった。
由紀が前を向いた。そこには、静かに、丁寧に花が供えられていた。
主人公の羽が止まる。見覚えのありすぎる場所だった。
ここは、自分が死んだ場所だ。
「真白も手を合わせてくれる?」
由紀の仕草を真似て、小さな娘も手を合わせる。
静寂の中、やがて由紀がぽつりと口を開いた。
「……ごめんね。厳しくしすぎたよね」
消えてしまいそうな、小さな声だった。
違う、そんなことはない。
蚊の口からは出ない言葉が胸の奥に浮かぶ。
彼女は悪くなかった。真摯に向き合ってくれていたのに、俺が受け止めきれなかっただけだ。
真白が小さく尋ねる。「ママ、このひと、おともだち?」
由紀は少しだけ笑って、考えた。「お友達じゃないかな。……仲間、かな」
仲間。そんな風に思ってくれていたのかと、胸が熱くなった。
その時だった。由紀が静かに言った。
「まだ捕まってないしね」
主人公の思考が止まった。捕まってない?
「わるいひと?」と首を傾げる真白に、由紀は「うん、悪い人」と頷いた。
事故じゃなかったのか?
そう思った瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
――夜道。仕事帰り。疲れていて、少し急いでいた。
後ろに、誰かいる。違和感に振り返ろうとした瞬間、背中を襲った凄まじい衝撃と熱。
息が止まり、足がもつれ、アスファルトへ倒れ込む。
視界が回る中、遠ざかっていく足音と走る影。顔は見えなかった。
ただ、圧倒的に怖かった。そこで記憶は切れている。
(……っ!)
主人公は激しく羽を震わせた。事故じゃない。俺は誰かにやられたんだ。
だが、それ以上は思い出せない。
「帰ろうか」
「うん!」
由紀は真白の手を握り、歩き出す。大きな背中と、小さな背中。
二人の後ろ姿をしばらく見送りながら、主人公は思った。
ミユも、由紀さんも、自分が思っていたよりずっと戦っていた。
人はみんな、見えないところで何かを背負っている。
そんな当たり前のことを、俺は死んでから、こんな小さな虫になってから知った。
夜風が吹き抜ける。羽を広げると、少しだけ空が広く見えた。
最初の人生も、前の人生も、大したことはできなかった。それでも、悪くなかったのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は静かに、夜の空へ舞い上がった。




