1.3:蚊
飛ぶ。ただ飛ぶ。それだけなのに楽しくて仕方ない。
人間だった頃、こんな風に何も考えず動いたことがあっただろうか。
仕事、予定、連絡、失敗。いつも何かに追われていた。
今は違う。飛びたいから飛ぶ、それだけだ。
前世で「空を飛びたい」と思ったことはあった。
だが、実際に飛ぶのは想像と全然違った。
上にも下にも行ける、止まれる、曲がれる、風に乗れる。
落ちなくていい。それだけで感動していた。
「うわっ」
勢い余って反転し、慌てて体勢を戻す。危ない。でも面白い。最高じゃないか。
前を見ると、同じような影が何匹もぐるぐると回って飛んでいる。
楽しそうな仲間の輪に、俺も混ざって上がったり下がったりしてみた。
――その、瞬間だった。
空中で、がっしりと何かに捕まった。
(え?)
逃げようとするが離れない。というか、体の奥が妙に熱くてゾワゾワする。
気持ち悪い、いや、ちょっと気持ちいい。待て、何が起きてる!?
そして理解した。
(あっ……交尾だ)
「は???」とパニックになった瞬間には、すべてが終わっていた。
相手の蚊はそのままフワリと飛び去っていく。
青空の真ん中に、俺だけがポツンと取り残された。
展開早すぎるだろ。
ボウフラ、寝る、起きる、飛ぶ、交尾。情報量が多すぎて頭が追いつかない。
◇
しばらく呆然としていたが、次なる問題がやってきた。
腹が減った。ものすごく。体が何かを求めて本能が騒ぎ出す。
夜の街を漂っていると、ふと懐かしく暖かい人間の匂いがした。
しかも、よく知っている人間。
羽を震わせて向かったマンションの一室、少しだけ開いた窓から中へ侵入したその瞬間。
「つっっっかれたぁぁぁぁぁぁ……」
聞き覚えのある声が響き、ジャージ姿の女性がソファに倒れ込んだ。
髪は適当にまとめただけ、化粧も落ちかけている。
(……誰だお前)
思わず呟く。ステージの上の姿と違いすぎる。
桜庭ミユだった。Lumiereのセンターであり、俺の元担当アイドル。
なんだその格好。というか、部屋がひどい。
ストレッチマットにダンベル、プロテイン、台本、衣装資料。その横に、食べ終わったカップ麺と食べかけのポテトチップス、空のエナジードリンク。
(アイドルとしてどうなんだ……)
もちろん声は届かない。ミユはスマホの画面を睨んでいた。
ちらりと見えたランニングアプリには『本日10.3km』の文字。
主人公は固まった。ライブまであと三週間。
だから走ったらしい。いや、十分売れてるだろ。センターだろ。なんで今さらそんなに走るんだ。
ミユはスマホを放り投げ、「足いてぇ……」とソファに沈んだ。
五秒、十秒、十五秒。動かない。死んだのかと思った。
だが突然ガバッと起き上がり、「よし!」と机へ向かう。
ノートを開き、ダンス動画とライブ映像を何度も再生しては巻き戻す。
「ここズレてるなぁ……」
ぽつりと独り言。誰も聞いていない、誰にも見られていない。それでも繰り返している。
主人公は黙った。知らなかった。いや、見ていなかった。
いつも完璧だったから、最初からできる人だと思っていた。
でも違う。ちゃんと練習して、悩んで、努力している。
ただ、マネージャーだった俺に見えていなかっただけだ。
ピコン、と通知が鳴る。仕事の連絡だ。ミユは即座に笑顔のスタンプ付きで返信する。
『了解です! 楽しみにしてます!』
送信。――一秒後、
「むりぃぃぃぃ……休みたい……」
机に突っ伏した。情緒どうなってるんだ。思わず吹き出しそうになるが、嫌な感じはしない。
むしろ泥臭くて人間らしい。
だが、彼女はまた起き上がる。SNSを開き、今日撮った写真の角度や明るさを何枚も確認して投稿した。
『今日もありがとう! みんなのおかげで頑張れました!』
満点の笑顔。
(その顔、五分前までしてなかっただろ)
ツッコミを入れつつも、不思議と少し格好いいと思った。
誰かを元気にするために、疲れていても笑う。それもプロの仕事だから。
ふと、机の端にあるファンレターの束が見えた。ミユはその中の一通を手に取る。
「受験かぁ。頑張れー」
返事は届かない。それでも、一通ずつちゃんと最後まで読んでいる。
順風満帆に見えていた彼女も、誰も見ていないところでちゃんと苦労して、ちゃんと頑張っていた。
そのとき、本能が騒いだ。飯だ。血を吸え。
分かった、うるさい。
俺はミユの首筋へ近づき、細い針を伸ばして、ぷす、と刺した。ちゅう、と血を吸い上げる。
(……あれ?)
思わず止まった。想像していた味と違う。
疲労や苦労もあるのだろう。
ただ、一つ言える、それは。
「何かドロっとする気がする」
真面目だし頑張っているのは分かる。でも、アイドルなんだから食生活も気を付けてくれよ。
「頑張りすぎるなよ」
「ラーメンだけじゃなく野菜も食べろよ」
届くはずのない言葉を、俺は小さく呟いた。




