1.2:蚊
「生きてるな」
先輩の言葉は妙に頭に残った。
未来は何になるのかも、この生き物の寿命すらも分からない。
でも今は生きている。それだけだった。
それからしばらく、俺は水の世界に慣れていった。尻で呼吸することにも、浮くことにも沈むことにも。慣れたくはなかったが、慣れた。
気付けば体も大きくなり、泳ぎやすくなっていた。
「俺、でかくなってないか?」
「たぶん」
「お前も?」
「たぶん」
相変わらずだった。
◇
ある日、雨が降った。
人間だった頃なら何とも思わないが、今は違う。世界が壊れる、本気でそう思った。
巨大な水の塊が空から「どごん」と落ちてきて、水面が爆発する。流され、回り、沈み、浮く。
「うわああああああ!?」
ただただ必死になった。
やっと雨が止み、静寂が戻る。俺はへろへろだった。
「死ぬかと思った……」
「死ななかったな」
「お前は余裕だったのか?」
「怖かった」
「怖かったのかよ」
「めちゃくちゃ怖かった。死ぬかと思った」
それならもっと慌てろよ、と思ったが言わなかった。
夕方、水越しに見る夕焼けは、不思議なくらい綺麗だった。
「なあ、赤いな」
「赤いな」
「なんで赤いんだろうな」
先輩は珍しく少し考えてから言った。
「燃えてる」
「燃えてないだろ」
「じゃあ知らん」
やっぱり適当だった。思わず笑うと、先輩も少し揺れた。たぶん笑ったのだろう。
◇
そんな日々の中、ある日突然、異常な眠気が襲ってきた。腹も減らない。何もしたくない。ただ眠い。
「先輩、眠い」
「俺も」
「病気かな。死ぬかもな」
「嫌なんだけど」
「俺も嫌だ」
二匹で黙り、少しして先輩が言った。
「寝るか」
「寝るしかないか」
「そうだな」
相変わらず結論が雑だった。
体が勝手に丸まっていく。サナギの殻に包まれる感覚は、怖いのに、どこか暖かく不思議と安心した。何も考えなくていい。
(ああ……気持ちいいな……)
意識が深く、沈んでいく。
◇
どれくらい眠ったのだろう。
気付いた時、俺は水面のすぐ下に浮かんでいた。
体が変だ。軽いなんてもんじゃない。何かが増えている。知らない感覚、知らない体。
そしてどうしようもなく、水面の向こうへ、もっと上へ行きたいと体が叫んでいた。
「先輩」
呼んでも返事はない。周囲には同じような形が浮かんでいる。皆、眠っているみたいに静かだった。
少しだけ不安になる。でも同時に、楽しみでもあった。
生まれてからずっと何かに向かって進んできた、その終点がもうすぐそこにある予感がした。
水面へ向かう。光が近づき、揺れ、眩しくなる。
そして、触れた。
その瞬間、背中が「ぱきり」と割れた。
(うわっ!?)
俺の中から、新しい俺が出てくる。意味が分からなかったが、それは息をのむほど綺麗だった。
細い足、透明な羽、朝日に光る体。水面の上に立ちながら、俺は見とれていた。
前世では知らなかった。生き物はこんな風に変わる。こんな風に生まれ直すんだ。
やがて羽が乾き、本能が囁いた。
――飛べ。
ただ一言、そう命じられた気がした。
俺は羽を動かした。
ぶん、と体が浮く。
ぶん、と少し上がる。
そしてもう一度、ぶわっと羽ばたいた瞬間、世界が足元から離れた。
「うわぁぁぁぁぁっ!?」
飛んだ。本当に飛んだ。
空だ。空を飛んでいる。地面が遠い。水面が小さい。
頬を撫でる風が、信じられないほど気持ちよかった。
自由だった。
あまりにも、自由だった。




