1.1:蚊
苦しい、狭い、押し潰される。
(なにこれなにこれなにこれ!?)
体が動かない。動かし方も分からない。
手はどこだ。足は――ない。は???
混乱したままもがき、硬い膜を「……えぃ」と蹴破った瞬間、外に飛び出した――と思ったら落ちた。
冷たい。水だった。
体が勝手にくねり、沈んでは浮く。
必死に水面を目指し、触れた瞬間に何かが満たされた。空気だ。生きている。
だが、おかしい。どこで息を吸った?
口じゃない。必死に確認して、理解が止まった。
(……尻?)
尻の先が水面から出ていて、そこから空気を取り込んでいる。
(なんで尻で呼吸してんだよ……気持ち悪っ!!)
意味が分からない。だがとりあえず、生きていることだけは確かだった。
◇
時計も太陽もない水の中で、腹が減ったら何かを食い、沈んでは浮く。
最初は嫌だったが、生き物というのは恐ろしいもので、(まあ……尻で呼吸するのも慣れてきたな……)と慣れたくもない現実に適応していった。
そんなある時、近くにいた細長い一匹から、声ではなく直接「意味」が頭に流れ込んできた。
「おい、新入り」
(会話できる!? なんで!?)
「知らん。生まれたらできた」
適当だった。だが、この世界で初めて会話が成立しただけで少し安心した。
名前もないそいつを、主人公は勝手に「先輩」と呼ぶことにした。
先輩は何でも知っているようで、何も知らなかった。
「今後どうなるんだろうな」
「空飛んでるやつになるんじゃないか」
「いや、そいつ前まで俺らを食べようとしてたやつだろ」
「じゃあ分からん。周りにいるとしたらそいつぐらいじゃないか?」
「適当だな」
「適当だ」
こんな調子だったが、なぜか生き残っている先輩の言葉には、妙な説得力があった。
◇
ある日、水底が動いた。
巨大な黒い影。名前は分からないが、本能が「ヤバい」と告げる。
「逃げろ」という先輩の声と同時に沈む。
その瞬間、さっきまで近くにいた仲間が消えた。食われた。それだけだった。
しばらく水草の影に隠れる。前世でも死んだ。でも、目の前で誰かが消えるのは怖かった。
黙り込む主人公に、先輩が適当な口調で言った。
「食ったやつは腹が減ってたんだろ。食われたやつは運が悪かった」
不思議と納得してしまった。誰も悪くない。生きるため、それだけだ。
水面越しに揺れる光を見上げる。綺麗だと思った。
前世の畑仕事の帰り道にも、会社からの帰り道にも、たぶん空はあった。
でもずっと下ばかり見ていて、気づかなかった。
「なあ」と先輩が言う。
「なんだ」
「生きてるな」
「今のところは」
「じゃあ十分だ」
そう言って先輩はまたエサを食べ始めた。
適当なやつだった。でも、少しだけ好きになっていた。




