2.5:蟻
平和だった。
だからこそ、その「違和感」にはすぐに気づくことができた。
◇
その日もいつも通りの外勤だった。エサを探し、巣へ運ぶ。ただそれだけの、いつものルーティンワーク。
主人公が蟻の列に加わって歩いていると、前方からピリピリとした「警戒」のフェロモンが流れてきた。
『危険。注意。前方確認』
主人公は足を止めた。周囲の仲間たちも一斉に静止する。
何事かと草の影を凝視すると、そこには不気味に蠢く、大きな黒い影があった。
――八本脚。蜘蛛だ。
(うわ、でっか……)
蟻の視点から見る蜘蛛は、文字通りの大怪獣だった。
蜘蛛がこちらを睨み、蟻の列も蜘蛛を凝視する。しばしの沈黙。お互いに誰も動かない。
(これ、どうするんだ?)と主人公が冷や汗を流した次の瞬間、蜘蛛がスッと数歩後ろへ下がった。それを見た蟻の列も、少しだけ進路を迂回して前進を再開する。
――交渉決裂、ではなく、相互不干渉。
蜘蛛も馬鹿ではない。わざわざ蟻の集団に特攻を仕掛けるリスクは冒さない。蟻の側も、勝てる算段はあっても無駄な損害は出したくない。
お互いに「じゃあ、お疲れさまでした」と大人の対応でその場は終わった。
(なんだ、意外と平和的なんだな)
その時は、本気でそう思っていたのだ。
◇
翌日、それは巣の中で突然起きた。
ブワッと一瞬で空気の密度が変わる。
『警戒! 防衛! 全員集合!』
脳内を殴りつけてくるような、昨日とは比べものにならないほど強烈な戦闘フェロモン。
主人公の意思とは関係なく、蟻としての本能が強制的に身体を突き動かす。「行かなければならない」という狂気的な使命感。
(何だ何だ、何が起きた!?)
主人公は津波のように押し寄せる仲間たちと同調し、出口へと殺到した。
外へ出た瞬間、すべてを理解した。
蜘蛛だ。おそらく昨日遭遇した、あの個体。
だが、場所が最悪だった。巣の目と鼻の先、大きな石の隙間にどっかりと居座っている。
どうやらここを新しいマイホームにする気らしい。
主人公は冷や冷やしながらそれを見上げた。(おいお前、そこは絶対にまずいって……)
蜘蛛はまだ気づいていない。
ここが、数万匹の蟻がひしめく巨大帝国の本拠地のド真ん中だということに。
その時、蜘蛛が不用意に動いた。偵察に出ていた一匹の蟻を、目にも留まらぬ速さで捕食したのだ。
一瞬だった。捕まったら、そこで終わり。
(やっぱり強いな、蜘蛛は……)と主人公が圧倒されていた、その次の瞬間だった。
地響きが聞こえるかと思うほど、地面が一気に真っ黒に染まった。
蟻。蟻。蟻。蟻。
巣のあらゆる穴から、果てしない数の仲間たちが噴き出してくる。
ここでようやく、蜘蛛の動きがピタリと止まった。
(あれ? もしかして私、やばいところに引っ越してきた……?)
主人公には、蜘蛛が本気でそう困惑したように見えた。
最初の一匹が蜘蛛の脚に噛みつく。蜘蛛はそれを鬱陶しそうに振り払う。
蟻が派手に吹き飛ぶ。
だが、二匹目、三匹目、四匹目――波のような突撃は、ミリも止まらない。
蜘蛛も必死で反撃する。流石の戦闘力だ。
しかし、いかんせん数が、数の暴力が違いすぎた。
気づけば主人公も、その最前線に躍り出ていた。
脳内に響き渡る防衛フェロモン。頭で考えるより先に、身体が勝手に蜘蛛の脚へ向かって跳躍する。
ガチリと大顎で蜘蛛の関節に噛みついた。
(うおっ、硬てぇ!)
想像以上の外骨格の硬さに驚いた瞬間、蜘蛛が狂ったように暴れ、主人公はゴミのように吹き飛ばされて地面を転がった。
「ってて……普通に怖ぇよ!」
慌てて起き上がり、周囲を見渡す。だが、逃げ出そうとする仲間は一匹もいなかった。
前へ。前へ。さらに前へ。
恐怖の感情を完全にパージした蟻たちが、怒涛の勢いで大怪獣になだれ込んでいく。
じりじりと後退する蜘蛛。そこへさらに蟻の津波。
それを見た主人公は、戦慄しながら思った。
(……ブラック企業の圧倒的な団結力が発揮されてる……!)
蜘蛛も完全に必死だった。
「待て待て、話せばわかる、悪かったって!」と言いたげな動きで必死に逃げ道を模索している。
だが、もう遅い。
右脚に蟻、左脚に蟻、腹に蟻、頭部に蟻。
全身を真っ黒に覆い尽くされ、蜘蛛の姿が消えていく。
(うわぁ……)
主人公は少し引いた。正直、かなり引いた。
数分後、あれだけ圧倒的だった大怪獣は、ピクリとも動かなくなった。
あたりは嘘のように静まり返る。
勝った。いや、「個」の強さを、「数」の質量で完全に押し潰したのだ。
そして、主人公が本当に恐怖したのはここからだった。
戦闘終了のフェロモンが流れた刹那、勝利の余韻に浸る間もなく、恐るべき手際で「解体作業」が始まったのだ。
右脚、切断。運搬。
左脚、切断。運搬。
胴体、解体。運搬。
(即座に食うんかい!!)
誰も感傷に浸らない。誰も勝利を喜ばない。
ただ「巨大な食料が確保できた」、それだけ。
蟻という生き物は、恐ろしいほどに合理的で、冷徹なシステムだった。
◇
その日の夕方、何も知らない真白ちゃんがベランダにやってきた。
「ありさーん」
いつもの、のんきで可愛い声。
その時、主人公はちょうど、さっき切り分けられた蜘蛛の生々しい脚を顎で挟んで運んでいる真っ最中だった。
真白ちゃんはしゃがみ込み、主人公たちの行列を見て無邪気に笑う。
「かわいいねぇ」
主人公は、自分が運んでいる蜘蛛の毛深い残骸を見た。
次に、真白ちゃんの笑顔を見た。
もう一度、蜘蛛の生々しい生首を運んでいく先輩の背中を見た。
そして、心の中で本気で突っ込んだ。
(いや――今日だけは、絶対に可愛くないぞ)
蟻は弱い。一匹なら、踏み潰されるだけの本当に脆い存在だ。
だが、群れ(組織)になった瞬間、この庭で最も冷酷で恐ろしいディストピアを築き上げる。
主人公は、巣へと吸い込まれていく蜘蛛のパーツを見送りながら、しみじみと思うのだった。
(あぁ……蜘蛛に転生しなくて、本当によかった……)
――この時はまだ、本気でそう安堵していたのだった。




