2.4:蟻
真白は、自由だった。
それでいて本当に、不思議な子だった。
◇
翌日もベランダにいた。その翌日も、さらにその翌日もいた。
蟻の行列がある場所には、高確率で彼女がしゃがみ込んでいる。
「ありさーん、おはよー。がんばれー」
(お前も仕事熱心だな……)
主人公はなかば感心していた。
ただ、よく観察していると、この小さな人間の行動はいろいろとおかしかった。
例えば、宿題。
真白はリビングの机に向かい、鉛筆を握る。問題を見る。そこまではいい。
だが、開始三分後には、彼女の瞳はきょろきょろと泳ぎだし、開いた窓の外へと向けられる。
――蟻、発見。
気づけば鉛筆を放り出し、ベランダへ直行している。
(おい)
「ありさん、何してるのかなぁ」
しゃがみ込んで観察開始。
それから十分後、部屋の奥から由紀の鋭い声が飛ぶ。
「真白ー? 宿題は進んでるの?」
「やってるーー!」
やってない。主人公はベランダの床からすべてを見ていた。完全に、一文字も進んでいない。
だが、由紀はそれ以上激しく怒ることはせず、少し呆れたようにため息を吐くだけだ。
「あとで泣きながらやることになっても知らないからね」
「はーい!」
返事だけは、いつでも大人の胸をぶち抜く百点満点だった。
◇
そんな宿題嫌いの真白だが、とにかく優しかった。
ある日の雨上がり、蟻の運行ルートの途中に小さな水たまりができていた。
人間から見ればほんの水滴だが、蟻のサイズにとっては命取りになる大河だ。
主人公たちが遠回りを余儀なくされていると、頭上に巨大な影が落ちた。真白だ。
「たいへんだ」
何が、と思う間もなく、真白は庭の隅から小さな小枝を一本拾ってきた。
そして、それを水たまりの真ん中にそっと横たえる。
――橋だ。
本人はたぶん、半分遊びのつもりなのだろう。
だが、蟻たちにとってはリアルに命を救われる架け橋だった。
仲間たちが次々とその一本橋を渡っていく。主人公もそれに続いて、安全に水たまりをクリアした。
それを見た真白は、実に向こう気な顔で、
「よし」
と満足そうに頷いていた。何がどう「よし」なのかは彼女にしか分からないが、とにかく本人が満足ならそれでよかった。
◇
また別の日、真白は洗濯物を畳もうとしていた。由紀の手伝いをするらしい。
「真白がお手伝いする!」
やる気と元気は、いつだってカンストしている。
その結果。
タオルは床に自由落下し、丸められた靴下はどこかへ転がっていき、せっかく綺麗に積み上げられていた洗濯物の山は派手に崩落した。
またたく間にリビングが散らかり、大惨事が出来上がる。
床からその様子を見上げていた主人公は、(……戦場か?)と戦慄した。
そこへ由紀が戻ってくる。現場の状況を確認し、しばしの沈黙。
真白はピシッと固まっている。なぜか蟻の主人公まで一緒になって緊張した。
だが、由紀は怒る代わりに、ふっと柔らかく笑った。
「ありがとう」
真白が、おずおずと顔を上げる。
「でも、次からはお母さんと一緒にやろっか」
「うん!」
真白の顔が、ぱあっと嬉しそうに輝いた。
主人公は、顎に砂糖の粒を挟んだまま、少しだけ考え込んだ。
真白の手伝いは、実質あまり役に立っていない。むしろ、由紀の仕事は確実に増えている。
だが、由紀はその失敗をとがめず、ちゃんと「気持ち」に感謝している。
真白も、お母さんの役に立とうとした自分の心が届いて嬉しそうにしている。
効率だけで言えば、きっとゼロ点だ。
人間って、本当に不思議な生き物だな、と思う。
もしこれが蟻の社会だったら、こうはいかない。
できる奴がやり、できない奴は別の持ち場へ回される。
それだけだ。感情の挟まる余地なんてない。
だが人間は違う。不器用な気持ちをそのまま受け取り、そのためにわざわざ時間を使う。
効率だけでは動かないその温かさが、小さな虫の身には、ほんの少しだけ羨ましかった。
◇
その日の夕方、由紀はずっと仕事の電話をしていた。酷く疲れた顔だった。
芸能事務所のマネジメントというのは、本当に忙しい。
前世の記憶がある主人公には、彼女の背負っている激務の重さが痛いほど分かった。
夜になっても、由紀はパソコンの画面を睨み、スマホの通知に追われ、書類をめくっている。
とにかく疲弊している。それだけは、遠目からでもはっきりと伝わってきた。
真白は、そんな母親の様子をじっと静かに見つめていた。
それから、とことことキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。
重い牛乳パックを小さな両手で抱え出し、コップを並べる。
案の定、注ぐ段階で半分くらいを床にドバドバとこぼした。
物陰から見ていた主人公が、(あっちゃあ……)と頭を抱えたが、真白はめげずに拭き取り、なんとか一杯の牛乳を完成させた。
真白はそれを、こぼさないように慎重に両手で持ち、由紀のもとへと運んでいく。
「おかあさん」
「ん……?」
パソコンから顔を上げた由紀に、真白は誇らしげにコップを差し出した。
「ぎゅうにゅう」
由紀は一瞬、驚いたように目を丸くした。
それから、今日一番の、本当に愛おしそうな笑顔を咲かせてコップを受け取った。
「ありがとう、真白」
真白もまた、世界を救ったヒーローのような満面の笑みを浮かべている。
主人公は思った。
たぶん、これが「神谷真白」という生き物の中身なのだ。
何でも完璧にできるわけじゃない。宿題の集中力は三分しか持たないし、手伝いをすれば大体失敗する。
だけど、「大好きな誰かを喜ばせたい」というその純粋な気持ちだけは、いつだって本物だ。
だから由紀も笑う。だから、どんなに疲れていてもまた明日を頑張れる。
ベランダの隅。
主人公は、せっせと砂糖の粒を運びながら、元人間の胸の奥に灯った少しだけ微笑ましく、そして温かい余韻に浸るのだった。




