2.3:蟻
巣の出口から顔を出した瞬間、まばゆい光が目に飛び込んできた。
土の匂い、草の匂い、風、湿度。久しぶりに肌で感じるシャバの空気に、少しだけ感動する。
別にどこかに収監されていたわけではないけれど。
蚊の時も外の世界は経験している。
だが今回は、自分の六本の脚でしっかりと地面を踏み締めて歩いていた。
蟻の視点から見る世界は、あまりにも巨大だ。
ただの小石は「大岩」に、雑草は「大密林」になり、一粒の砂すら巨大な障害物として立ちはだかる。
すべてが新鮮で、圧倒的だった。
主人公は、ベテラン外勤蟻たちのスマートな列に加わった。
無駄な動きが多くすぐに息を切らす若手を尻目に、ベテランたちは迷いなく淡々と最短ルートでタスクを回していく。
(人間の会社も、こういう優秀なベテランに支えられてたっけな……)
そんな風に少し感傷に浸っていた、そのときだった。
――ビビッ、と仲間からのフェロモン信号(一報)が一瞬で伝播した。
『甘い匂い、エサ発見、方向、距離』
スマホの通知以上の速度と正確さで、脳内に直接データが送り込まれてくる。
(あっちだ!)
到着したエサ場にあったのは、蟻から見ればもはや「山」にしか見えないクッキーの欠片だった。
仲間たちが一斉に群がり、顎で切り分け、運搬を開始する。
主人公も負けじと顎でひとかたまりを挟み、持ち上げてみる――重い。
自分の体重の何倍あるんだこれ。
だが、不思議だった。
数十匹、数百匹で力を合わせれば、あの巨大な山がみるみるうちに解体され、運ばれていく。
蟻という生き物は、一匹なら本当に脆くて弱い。
でも、集まると無敵の重機集団になる。
その「数の強さ」の意味が、身をもって分かりかけていた。
◇
そんな外勤の日々が日常になったある日、主人公は「それ」を見つけた。
ベランダの白い柵、干された洗濯物。その近くにしゃがみ込んでいる、一人の小さな人間の少女。
「ありさんだー」
主人公は思わず、その場に足を止めた。
風に髪を揺らしながら、興味津々でじっと地面を観察しているのは、小学校一年生くらいの少女――神谷真白。
あの日、死んだ俺の前に花を供え、由紀さんの隣で静かに手を合わせていた、あの少女だった。
あの時は大人しくて健気な印象だったが、今は全然違う。
とにかく――顔が、近い。
(近い近い近い近い!! 喰われる!!)
蟻の視点から見れば、人間の巨大な顔と爛々と輝く瞳は、もはや上質なホラー映画か怪獣映画の恐怖映像だ。だが、真白は無邪気に笑っていた。
「がんばれー。おおきいのもてるんだね」
ただ必死にクッキーの粉を運んでいるだけなのに、応援され、純粋に褒められた。
なんだろう、前世の社畜時代には味わったことのない、悪くない気分だ。
すると真白はパッと立ち上がり、家の中から何かを持ってドタドタと戻ってきた。
そして彼女の小さな手のひらから、パラパラと頭上に落とされたのは――純白の結晶。
砂糖の粒だった。
「ごはんだよー。たくさんお食べー」
主人公は降ってきた砂糖の雨の中で固まった。(……完全に餌付けされた)
しかし、周りの仲間たちはこの世の終わりかと思うほどの大ごちそうの祭りに大喜び。
狂ったようにハッピーなフェロモンを飛び交わせている。
郷に入っては郷に従え、だ。主人公もせっせと目の前の砂糖を運び出す。
それを見て、真白は「えらいねぇ、いい子だねぇ」と満足そうにニヤニヤしていた。
何なんだこの子は。主人公は心の中で少し笑いたくなった。
蟻に転生してから、こんなに穏やかで温かい気持ちになったのは初めてかもしれない。
そのとき、ベランダの向こうの部屋から、少し疲れた、でも聞き覚えのある優しい母親の声が響いた。
「真白ー。おやつ食べ終わったら、早く宿題やるのよー」
「はーい!」
元気よく返事をする真白。
しかし――それから三分が経過しても、彼女はまだその場にしゃがみ込み、蟻の行列をじっと見つめていた。
主人公は、運搬の手を止めて心の中で静かに突っ込んだ。
(……おい、返事だけじゃなくて早く宿題やれよ)




