2.2:蟻
「成長したい。切実に」
今の主人公の願いはそれだけだった。
蚊の時は命がけだったが、少なくとも自分の意思で行動できた。だが今は違う。完全なる赤ちゃん。
毎日、起きる、口移しで食べさせられる、全身を舐め回されて掃除される、運ばれる、寝る、終わり。尊厳の欠片もない。
そんなある日、主人公は今までとは違う静かな部屋に運ばれた。
体がおかしい。内側から何かが変化しているのを感じる。やっと成長できる。これでちゃんと、蟻になれる。たぶん。
◇
時間の感覚が曖昧になる。眠っているのか、起きているのか。
周囲の働き蟻たちがひっきりなしに確認に来るのをサナギの殻越しに感じながら、主人公は朧気に思う。
(蟻社会、マジですごいな……)
幼虫もサナギも全部見捨てず、隔離も移動も温度管理までやる。保育士と介護士と看護師のワンオペを、全自動でこなしているかのようだ。若手働き蟻、思った以上に超激務である。
◇
そして、ついにその時が訪れた。
体が軽い。脚が動く。殻をぐっと押すと、パキリと割れて光が見えた。さらに力を込めて――脱出。
世界が広く感じた。久しぶりに、自分の六本の脚で大地を踏み締めている。触角、頑丈そうな顎、そして黒い体。ついに、ついに蟻になった!
一歩、二歩、三歩。歩ける感動に震えた、次の瞬間。
近くにいた先輩の働き蟻がやってきて、触角でペタペタと俺を確認するなり、くるりと向きを変えて主人公を「ドン!」とお尻で押し戻した。
勢いよく転ぶ。(え、何!?)
慌てて起き上がると、さらに別の蟻が来て、また元の場所へ押し戻してくる。(ちょっと待って!?)
生まれたての働き蟻は、まだ外骨格が完全に固まっておらず体が柔らかい。つまり、「まだお前は引きこもってろ」という超過保護なストップだったらしい。
自由になれたと思いきや、蟻社会の管理体制は甘くなかった。
まだまだ超新人、まずは巣の中でできることから始めろということか。
主人公はまだ知らない。この先、育児担当としてさらに濃密な蟻社会のディープな洗礼を受けることを。
◇
とにかく、初仕事が割り振られた。
最初に任されたのは、自分が少し前まで受けていたあの「育児」だった。
見渡す限り、白い芋虫がもぞもぞと大量にうねる狂気の幼虫部屋。
(数週間前まで自分もあの中に……)と複雑な気持ちになりつつ、今度は自分が親の立場で、幼虫たちの口元へせっせと口移しの給餌を繰り返す。因果応報とはこのことか。
だが数日後、ある違和感に気づいた。
部屋の隅で、何かしているようで、実はミリも動いていない数匹の若い働き蟻がいる。
うろうろ、ふらふら。
(……こいつら、絶対にサボってる)
人間の研究でも確認されている「優秀な集団でも2割はサボる」という交代要員のシステムだ。
元社畜として興味が湧いた主人公は、仕事をそっと離れ、そのサボり蟻たちの隣に並んで立ってみた。
楽だ。疲れない。最高。
最初の数分は、それでよかった。働かなくても、他の真面目な蟻がシステム通りに仕事を回してくれる。
しかし、だ。
ほんの少しサボっただけでも、元人間のメンタルに猛烈な気まずさが襲いかかってくる。
誰も怒らないし、誰も見ていない。なのに、罪悪感に耐えかねて結局すぐに育児の仕事に戻ってしまう。
(チクショー、サボるのにも才能がいるな……)
堂々とニートを決め込める蟻のメンタルに、心から感服した。
◇
そんなある日、主人公は巣の最奥で「女王」を拝謁した。
働き蟻の何倍もある巨体と、圧倒的な存在感。
(でっかいな……。あと、めちゃくちゃ偉そう)
女王は一切の指示を出すこともなく、ひたすら機械のように卵を産み続けている。
考えてみれば、この巣の住民はほぼ全員が彼女の子供だ。
狂気すら感じる手際で、ただただ卵を産み落としていく母の姿。
『増やせぇ! 我の帝国を作るのよ!』という幻聴が聞こえてきそうなほど鬼気迫る姿だが、不思議と嫌いじゃなかった。
動かず、戦わず、ただ自分に与えられた役割だけを何千、何万回と延々と続ける姿は、それはそれで職人じみていて、すごい気がした。
◇
育児、掃除、サナギの運搬、たまにサボり蟻の観察。
そんなルーティンをこなす日々の中で、主人公の体は大きく頑丈になり、顎も強くなり、蟻としての動きも完全にマスターしていった。
そしてある日。ついに脳内に、巣の出口へ向かう一斉指示が流れてくる。
外勤準備。
ついに解放される、暗い土の中。太陽の光、そして、初めてのエサ探し。
主人公は一瞬、歩みを止めて上を見上げた。
ついに来た。蟻として生きる、初めての外の世界が。




