2.6:蟻
蜘蛛事件から、数日が過ぎた。
蟻たちの日常は、何事もなかったかのように回り続けている。
エサを探し、運び、幼虫を育て、巣を守り、また運ぶ。蜘蛛との大泥泥の死闘すら、システムの一部に過ぎない。終わればそれは単なる「昨日のタスク」だ。
主人公だけが、しばらくの間(いや、マジで怖かったな……)と前世の社畜メンタルを引きずっていた。
だが、それ以上に。
最近の主人公には、エサ運びの合間に「あるもの」を見る時間が増えていた。
神谷真白。
この小さな人間は、相変わらずだった。
宿題を始めては三分で飽き、窓の外の蟻を見つめ、由紀さんに怒られて渋々机に戻る。
ミリも成長していない。だが、それが妙に面白く、愛おしかった。
ある日、学校から帰ってきた真白が、リビングにランドセルを放り投げた。
「投げないの!」とすかさず由紀さんの雷が落ちる。
「ごめんなさい!」と真白は即座に謝罪する。
――そして、三秒後には綺麗さっぱり忘れている。
(子供ってすごいな……)
主人公は少し羨ましかった。嫌なことを引きずらない。怒られても、泣いても、次の瞬間にはもう笑っている。人間だった頃の、他人の目ばかり気にしていた自分には、到底不可能な生き方だった。
◇
その日の夜、由紀さんは相変わらず遅くまで机に向かっていた。
叩かれるキーボードの音、鳴り止まないスマホ、積み上がる書類。疲弊しきった彼女が、誰にも聞こえないくらい小さなため息を漏らす。
そのとき、とことこと真白が近づいていった。
「おかあさん」
「ん……? どうしたの?」
真白は少しだけ小首を傾げて、言った。
「つかれてるかお、してた。だいじょうぶ?」
静寂が、リビングを包み込む。ほんの数秒のことだった。
由紀さんは少しだけ目元を潤ませ、今日一番の、本当に優しい笑顔を咲かせた。
「……ありがとう、真白」
それを見て、真白も嬉しそうににへらと笑う。
ベランダの隅から、主人公はそれを見ていた。
ただの蟻として。
何かをしたわけじゃない。真白を助けたわけでも、由紀さんの過労を救ったわけでもない。ただの虫として、無力に覗き見ていただけだ。
でも――悪くなかった。
蚊の時は、ただ一日を生き延びるために必死だった。
だけど今回は違った。蟻として生き、その奇妙な社会を知った。幼虫の恥ずかしさ、サナギの神秘、働き蟻の激務、女王の圧倒的な職人感。蜘蛛という大怪獣の恐怖。
そして、不器用だけど温かい、人間の親子を見た。
世界は広い。ずっとそう思っていた。
だが、本当は違うのかもしれない。
世界が広いんじゃない。
「誰にでも、それぞれの世界がある」のだ。
蟻には蟻の、蜘蛛には蜘蛛の、人間には人間の世界があり、そのどれもが、自分の持ち場で案外必死に、泥臭く生きている。
真白が笑い、由紀が笑う。
その光景を複眼に焼き付けながら、主人公は胸の奥で、じんわりとした満足感を覚えていた。
(悪くない蟻生だったな……)
そんなことを、のんきに考えた瞬間だった。
頭上から、突如として巨大な闇が降ってきた。
――人間の、靴底だ。
(しまっ――)
回避を試みる。だが、蟻の脚力では、迫り来る質量から逃れるには遅すぎた。
視界が、世界が、激しく爆発するように揺れる。
潰されゆく意識の、本当の最後に見えたのは。
ベランダの窓際で、無邪気にこちらへ向かって手を振っている真白の姿だった。
「ありさん、ばいばーい! また明日ねー!」
虫の鼓膜に、そんな声が届くはずもない。
だが、なぜか、確かにそう聞こえた気がした。
(ああ……)
悪くなかった。
本当に、悪くない一生だった。
ぐしゃり、という小さな音と共に、主人公の二度目の生は、唐突に幕を閉じた。
――そして、その魂は、休む間もなく「三度目の光」へと引きずり込まれていく。
◇
意識がゆっくりと浮上してくる。
暗い。けれど、暖かい。そして、もの凄く柔らかい。
(ん……?)
何かが左右から押し寄せ、自分の体にむぎゅむぎゅと当たっている。
狭い。だが、不思議と嫌な狭さじゃない。むしろ、ずっと包まれていたくなるほど心地いい。
周囲からは、トクトクと規則正しい鼓動と、穏やかな呼吸の音が響いている。ダイレクトに伝わってくる、圧倒的な生命の体温。
(なんだこれ……?)
主人公は首を傾げようとした。いや、そもそも今、自分に首があるのかすら分からない。まだ体は思うように動かなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
暖かい。ものすごく、暖かい。
前回、前々回とは大違いだ。
蚊の時は生まれた瞬間から泥水をすすり、蟻の時は生まれた瞬間からブラック企業で働く未来しか見えなかった。
だが、今回は違う。何か、もの凄く自分が駄目人間に――いや、駄目生物になりそうな、甘美で恐ろしい予感がする。
その時だった。
すぐ近くから、小さく、か細い声が聞こえた。
「……みゃあ」
主人公は、数秒間フリーズした。
(あ)
嫌な予感が、一瞬で確信に変わる。
(これ、絶対に猫だ……)
しかも、ただの猫じゃない。まだ目も開いていない、産まれたてホヤホヤの、かなり最初期の段階のやつだ。
ぬくもりの中で、再び意識が心地よく遠のいていく。
眠りに落ちる直前、元・三十代社会人の主人公が思ったのは、ただ一つだった。
(……また赤ちゃんからスタートかよちくしょう……!!)




