第67話 夏空の向こう側
居住層における地下鉄車内及び商業施設での騒動のあと、一週間の外出禁止令が発令され、その後の政府からの安全宣言を経て、人々は次第に日常を取り戻していった。B.A.T.隊員による各交番への応援とパトロールは、引き続き補欠隊員が担うこととなり、戦闘部隊各班に所属する者は通常通りの訓練と、化学班との合同研究に臨む。
アネモネたち研究者が発表した仮説を実証し、行方不明者の家族を納得させるためには、決定的な科学的証拠が必要だった。つまり、捕獲したセラフィムの生体組織から抽出したヒト由来のDNA型と、行方不明者のそれとの「同一性評価」だ。セラフィムの遺伝子からヒトの遺伝子を炙りだすために、行方不明者の遺族から参照用のDNAを提出されることが重要だった。行方の分からない家族が、セラフィムに取り込まれたと思いたくない者は、毛髪や歯ブラシ等の提出を渋った。行方不明のままなら、いつか帰ってくる可能性は残しておけるが、もしも擬態したセラフィムと合致してしまったら、一切の望みは絶たれてしまうのだ。家族を失うとは、そういうことだ。結局、サンプルを提出したのは、警察に行方不明者届を出したうちの半数ほどだったが、それらすべてのデータが、捕獲された擬態個体のDNAと一致した。だがすでに解剖され、組織をプレパラートで観察されてしまったセラフィムが家族の一員であったとは、とても残酷で受け入れることはできない。遺族たちは、「もう人間には戻れないのか」「どうして人間がエンジェルになったんだ」と研究者に詰め寄ったが、アネモネはこう答えるしかなかった。
「行方不明になっているご本人とエンジェルのDNAは一致しましたが、まだご家族がエンジェルに変異したと断定できる段階ではありません。また、『なぜ人間がエンジェルになったのか』『もう人間に戻れないのか』という問いについても、現段階では正確な答えを導くことは不可能です。分析、解析は日々行っています。ご心中お察ししますが、この非常事態をどうかご理解ください」
胸が張り裂けそうな不安と心配、憤りをどこにぶつければよいかわからない家族たちは、アネモネの説明をきいて一旦は鎮まった。彼らも疲れている。早く真相を知り、自身を納得させたいのだろう。
会議の席でギデオンがアネモネに問うた「攻撃性が低いというのは、どの条件下でも同じか?」の答えが、今から出されようとしていた。人間を「喰った」とゲンシュウが表した擬態セラフィム一体が、戦闘訓練用の広場に連れ出される。ギデオン班からオスカーがその個体と対峙し、いつでも攻撃できるように武器の準備をしているが、セラフィムは一向に攻撃してこない。それどころかオスカーをじっと観察し、何かアクションを起こせばすぐに真似ようとする。
また、もう一体のセラフィムは科学棟の実験室で水槽の中に入れられたまま、やはりギデオン班のディーノと向き合った。厳重に隔離した実験室内ではあるが、水槽の蓋は開いていて、セラフィムなら簡単に脱出することができるのだが、この個体も首を傾げながらディーノを観察している。ディーノは武器を持ってセラフィムに近づけてみるが、その動きを真似るだけで、やはり攻撃する様子は見られなかった。
実験と称して行うなら、たった二つのケースだけで結論付けるには無理がある。もっと規模を大きくして、たとえば地上で試してみれば別の結果が得られるかもしれない。しかし、一つずつ試してデータを蓄積していかなければ、擬態するセラフィムについては何も進められないのも、また事実だった。
地上にセラフィムが襲来した事案は、五月上旬を最後にそれきり止まっていた。地下居住層へも、あの騒動以来セラフィムが現れることはなく、行方知れずのウォーカーの捜索と、蛹の発生に注意するだけとなっていた。地下の気温は一年中快適に保たれているため、パトロール等の際に地上に出て、はじめて夏がやってきたことを実感する。カレンダーで日付を知っているだけでは、夏が来た、とは思えない。
「いや、久しぶりに地上に出てみたら暑いっすね」
「もうこんなに夏らしくなってたんだな」
カイト班のジンとアンリが、およそ一か月ぶりに地上に出た感想だ。エレベーターを降り、車両置き場でパトロール用の車に乗り込んだふたりは、そのままアウターウェブで保護された市街へと向かう。久しぶりに感じる本物の陽射し、コントロールされていない空気、肌にまとわりつくような地上の熱気と湿度、わずかに残っている自然は、それでもふたりの心に豊かさをもたらした。
「エンジェルさえいなくなればな、また地上で当たり前に暮らせるのに」
「うん、早くそうなるように頑張ってあいつらを全滅させよう」
「そうだな」
ジンとアンリは、同期で入隊した仲間意識の強い隊員だ。戦いに秀でた特徴はないが、真面目で洞察力が鋭く、連携プレイでセラフィムを討伐したことは数えきれない。
ウォーカーと蛹の謎は、まだ何も解明されていない。警戒を緩めたくないB.A.T.隊員と、地上も地下も静かなうちにセラフィムの棲息地や、その他の情報を得たいと躍起になる化学班の職員たち。誰もがこの度の擬態個体やウォーカー、そして蛹から羽化したと推測されるセラフィムたちについて、もっと早く、確実な情報を得たいと焦っていた。
そして戦闘員でありながら心は科学班のフローラと、本物の科学者であるアネモネは、あれ以来頻繁に会い、ふたりだけで共有する情報を交換していた。
「ねぇアネモネ、あなたと初めて飲んだ夜、ウォーカーが私に会いに来てくれた話はしたでしょう? あれ以来あの子に会えてはいないけど、きっとあの時よりも成長していると思うの。ね、アネモネもそう思わない?」
グラスをライトにかざして、白ワインの中に浮かぶ電球を見つめてから、フローラはアネモネに視線を移した。アネモネはシャンパングラスの底から、絶えず立ち上る細かな泡に吸い込まれるような錯覚を起こして、慌ててフローラの顔を見る。美しいと評判のフローラと、知的だが化粧っ気がなく、地味な研究者だったアネモネ。彼女はフローラと接するようになってから、少し変わった。外見にも気を配るようになり、才色兼備という言葉がぴったりな科学者になった。
「そうね、研究室にいる擬態個体と違い、ウォーカーだけが自分の意思を持っていて、人間になりたいと思ってるのかも。私はそんな気がする」
「ところで、行方不明者とのDNA照合は終わったんでしょう? 結果はどうだったの? やっぱり、その……人間がセラフィムに食われてしまったと考えられる?」
いくらフローラでも、セラフィムに食われた人間を「羨ましい」と感じていることを、アネモネに告白するのはためらわれた。あまりにも不謹慎だと思われ、信頼を失うことになりかねない。だが、フローラは本気でそう思っていた。セラフィムに食われることを「羨ましい」と。
「それなんだけど、今のところはなんとも言えない。確かにDNAは一致しても、なぜセラフィムから人間の細胞が出てきたのか、なぜ人間の真似をするのか、それらはさっぱりわからない。お手上げよ」
肩をすくめて言うアネモネは、科学者としてとても悔しい思いをしたようだ。なんとしても、ウォーカー、そしてエンジェルの生態を把握して、地上で明るく暮らしたい。もう何年もそう思い続けている気がして、アネモネははっと自分の手のひらを見つめた。
居住層で起きた、擬態するセラフィムによる一連の騒動は、出動できなかった隊員にも大きな影を残した。特にエイジは、エンジェルを「残らずぶっ殺したい」という強い意志をもってB.A.T.、それもブリクサ班に編入することを望み、実現させたのだ。あの日、現場に自分がいれば、あるいはカリタという大きな犠牲を出さずに済んだのでは、という傲りといえるほどの気持ちを抱いてもいた。ましてや、当日新たに配属された友人である、マックスとシドニーが地下鉄の走る列車内という特殊な場所で活躍したのだから、その焦りも当然だろう。射撃訓練場で指導員もつけずに、エイジがひとりで練習していると、横から急に声を掛けられた。
「おっ、エイジ。ちょっと当たるようになってきたんじゃない?」
カルマがプティ・パニッシャーを大切そうに抱えて立っている。実戦ではなく練習場へ専用武器を持ち込むことは珍しい。規則で禁止されているわけではないが、各隊員の専用武器は殺傷能力が非常に高く、屋内などの狭い場所で使用するには適していないのだ。カルマは、今からここでプティ・パニッシャーの練習をするつもりだろうか。
「おはようございます、カルマさん。それって、プティ・パニッシャーですよね?」
「そうそう。よくわかったね。いや、ここで使うつもりじゃないから安心してよ。ここんとこ不穏な感じが続いてるでしょ? だから、他の武器も含めて磨いておこうと思っただけだから」
「はい、そうですね。武器の手入れは俺も楽しいです。次に出動したら、奴らを皆殺しにしたいと、そう思いながらやってます」
「はは、大きなセラフィムに火炎弾を撃ち込むのは、それほど難しくはないからね。敵の身体が大きければ大きいほど当たる」
プティ・パニッシャーのスコープをのぞき、クラウスのラボでそうしたように、カルマはまた「バーン」と声を出した。
「はい、あとはもう練習あるのみ……それと、現場で失敗しないことだと思います」
初出動時の失敗を、エイジは教訓として心に留めている。イザークに注意してもらったことで、それはのちの戦闘に役立ち、ブリクサを援護することもできたのだ。
「ブリクサ隊長、おはようございます」
ブリクサがやってきて、エイジとカルマが敬礼すると、ブリクサはそれを手で軽く制した。そして自身もライフル型の銃を手に取って構える。
「ブリクサ隊長、次は必ず現場に行きましょう!」
「……それを決めるのはお前じゃねえよ」
ふっ、とエイジを見下ろしたブリクサが一瞬だけやわらかく笑った。するとカルマもブリクサの横で銃を構えながら笑う。
「また~、ブリクサ隊長ってば、察してくれればいいのに」
カルマが軽口を叩くのはいつものことだが、勘のいいカルマは、決して相手が不快に思うことのない場面でそうしている。ここでもブリクサはまったく気にせず、横顔だけの気配でカルマに応えた。ふたりの隣でそのやり取りを見ていたエイジは、ブリクサのクールな振る舞いに改めて心酔し、トリガーに掛けた指がぷるぷる震えてしまった。
訓練場のフリースペースでは、シアラとレイが連携してセラフィムに対応できるフォーメーションの組み立て、及び武器を使うタイミングのシミュレーションをしていた。今までシアラはラウラのそばで戦うことが多かったが、誰と組んでもベストな戦い方ができるよう、柔軟に対応していきたいと思う。レイは武器を使ってセラフィムを倒すよりも、誰かのアシストやセラフィムの残骸処理などを主に担当していたため、ブリクサ班の戦闘員としてスキルアップする必要があると、シアラに力説されてのことだった。ふたりが距離を縮め、互いに補い合うのはいいことだと、隣の訓練場から見ているラウラは嬉しく思っていた。
少し離れたスペースでは、ヘスティア班のアナトとイリスの姉妹が、連携してターゲットを処理する最短は何秒かと、何度も繰り返しながらタイムを計っている。ノリカ、モイラ、他の隊員は、それぞれ二人ずつ組んで、武器を出してから使用するまでのスピードをアップする練習をしていた。ヘスティア班の隊員ではあるが、フローラはもちろんこの場にはいない。キャロルとジャンヌは、ヘスティアから基礎体力を向上させるための筋トレを命じられた。
そしてその横では、ギデオン班の全員がギデオンの命令の下、フォーメーションを変更する際の素早い動きと、もっとも効果の高い武器の選択について議論していた。カリタの代わりに入った新人・ジルも積極的に意見を出す。明るく快活で、常に正論をもって思考するというジルは、カリタとは真逆とも映る個性のように思われるが、アンはジルの中にカリタの意識を感じることがしばしばあった。
各班、各隊員が、もう殉職者をだしてはいけないと強く思っている。そのために出来ることはすべてやるつもりだと、全員の表情は厳しく引き締まっていた。
B.A.T.の医療棟内に併設された「精神・心理総合センター」は、春のような陽射しと温度、湿度が保たれるエリアだ。それは精神が傷ついた人が自己を回復するために、その環境がベストだと思われるという研究結果に基づいて設計された。
センターのフロアでエレベーターを降り、B.A.T.の事務職員と手を繋いで廊下を歩いていたクリスは、中庭で花の香りを楽しんでいる風情の、黒髪の少女の存在に気づいた。自分と同じくらいの年の子だと思いながら、職員が自分に話しかけるやさしい声にすがるように、大人の手をぎゅっと握りしめる。
「先生、クリスくんです。よろしくお願いします」
「カルテには目を通してありますが、それを作成後にわかった情報があれば、ここで開示してください」
「いえ、カルテ以降は特に情報も変化もありません」
事務職員とカウンセラーのふたりは、たぶん自分のことを話しているのだろう。だがクリスには、ふたりが何を言っているのか、耳では聴こえていても頭で理解できない。会話する彼らを眺めていたクリスは、すぐに窓の外へと視線をずらした。
「はじめまして、クリス。私はニコラといいます。これからあなたとお話をたくさんしていきます。思ったことは何でも言ってね」
ニコラの温かい笑顔はクリスの警戒心を解いたが、この人に話すことなど何も見つからないと、クリスは作り笑いで返した。やさしく話すニコラの喉と、そして窓外とにせわしなく視線を移動させながら、クリスは春の陽気に包まれるのは気持ちがいいと思っていた。
「ママがね……」
目の前のニコラから柔らかな陽差しが降り注ぐイメージを感じ、クリスは言葉を絞り出す。この人なら、ママがいなくなったことを教えてくれるだろうかと、かすかな期待を込めた瞳を向けた。
アウターウェブで覆われた、人間が暮らすエリアのはるか上空。地上からは目視不能なその高さ。白く優雅な翅は、ゆったりと羽ばたいていた。その巨大な身体は、ホバリングしながら漆黒の瞳を下界に向けている。目的も判らず誰かを攻撃することもなく、それはただ飛んでいた。いつどこへ還ってゆくのかもわからず、熱線が降り注ぐ広い空を、ただ飛んでいた。




