第66話 君と歩く昼休み
化学棟三階の薄暗い廊下を奥まで進み、エイジはこっそりと父に会いに行った。地下に発生したセラフィムについて、父なら何か知っているかもしれないと思ったからだ。
周囲を見回してからドアノブを回してみる。しかし当然のようにそこはびくともしない。あの時フローラが唱えた呪文は、本当に効果があるのだろうか。誰もいないのに恥ずかしさを感じながら、エイジは静かにつぶやいた。
「ひらけ、ゴマ」
すると自然にノブが回り、ドアが開いたのだ。エイジがほっとして中に入ろうとした時、背後からする~っと、絡みつくように何かが肩に触れてきた。
「ぅわっ!」
「シッ、エイジ、誰かに見られたら大変よ。早く入って」
驚いて声を出したエイジに、フローラは彼の口を手のひらで覆い、静かにしろ、と目で言っている。そう言われても、と思いながら、エイジはまだドキドキと速い鼓動を繰り返す心臓をなだめる。それなら自分が脅かさなければいいのにと思ったが、エイジは頷いた。
少しだけひらいたドアの隙間に滑り込むように、ふたりは素早く中に入った。ミハイルは、いつもと変わらない様子で水槽に浮いている。
「ハーイ、ミハイル、久しぶりね」
古くからの親友のように、フローラはミハイルに話しかける。エイジは彼女の身体に半分隠れる位置に立ち、「生きている」父を見てほっとしながらも、まだ緊張はとけない。
「父さん……」
「さぁ、エイジ。ミハイルに話があるんでしょう?」
「あぁ、はい。フローラさんもですか?」
『ふたりとも、よく来てくれた。ゲンシュウは私に何か吐かせようとする時にしか来ないんだ。寂しいものだよ。ははっ』
エイジがフローラに尋ねると、先にミハイルが言葉を発した。ピンク色の電灯を当てられた彼は、脳の色を強調するように液体の中で自身を揺らし、気味の悪い光沢を見せつける。
ミハイルの言葉を聞き、エイジは生前の彼を思い返した。養父は愛情深く、ユニークで信頼できる大人だった。このような姿になってしまったからだろうか、皮肉めいたことも言うようになり、エイジは何度も戸惑っている。
「うん、父さん。いきなり訊くけど、絶対安全だと言われてた地下に、エンジェルが現れたんだ。もう誰か……ゲンシュウ総指揮官から聞いた?」
『ああ、詳細は知らないが、地下に現れたことだけは聞いた』
「そっか、じゃあ俺から詳細を言うね。フローラさんは現場に行ってるけど、俺は出動できなかった。だから、詳しいことはわからない。わからないから知りたい。父さんは何か知ってる?」
地下居住層に現れたセラフィムは、今までのエンジェルとは大きく異なり、先に襲ってはこなかったこと、大量の蛹が見つかったことなど、エイジはおそらくゲンシュウが割愛したであろう事実を、ミハイルに告げた。エイジとミハイルの間に立ち、フローラは鼻息荒く大興奮で聞いている。
「……あと、人間に擬態していた個体もいて、最近の行方不明者の数と、その数が一致したんだって。それは、行方不明の人たちがエンジェルにされたってことだよね?」
『人間と……?』
エイジの報告に、うん、うんと相槌を打っていたミハイルが、息を呑んだ気配がした。ミハイルはしばらく沈黙し、そのあとで言葉を出した。
『……そうか』
「父さん、人間に擬態することについて、何か知ってるの? それとも思い出した?」
『いいや。エイジ、私は君たちよりも、この世界については知らないことの方が多いのだ。エンジェルが蛹の過程を経るということはないはずだが……。思い出せないだけかもしれない。いや、おそらく本当に知らないのだろうな』
ふたりの会話を聞いていたフローラが、ウォーカーについてミハイルにぜひ聞いてほしいと、いきなりマシンガンのようにまくし立てる。エイジは突然始まったフローラ劇場に溜め息をつく。
「ねぇミハイル、聞いて! 居住層にいたエンジェルの中に、二足歩行する子がいたの! 私はその子が歩き出す瞬間を見たわ。だから名前は『ウォーカー』よ。あの子は美しい翅を持ち、首は細くてまっすぐに伸びて、赤い後脚で立っていたの。私に翅を触らせてくれたわ。あぁ、愛しい私のウォーカー。それでね、なんと! 二回目に会ったときは、足に人間の指ができていたのよ! あの子は擬態個体とはまた別の種よ。あの子が『本当の』人間になろうとしている可能性はあるかしら? ミハイルならわかるんじゃない?」
エンジェル狂いの、いつものフローラだった。瞳は煌々と輝き、胸の前で指を組んで祈りのポーズをしながら恍惚としている。「人間になろうとしている可能性」など、ミハイルが知るわけがない。彼は当然フローラの疑問には答えられず、「うぅむ」と考え込んでいるようだ。
『人間に似ていることと、人間になりたいことは、果たして同じだろうか』
絞り出したミハイルの言葉に、エイジもフローラもはっとした。そうだ、「似ている」と「なりたい」は違うのかもしれない。
「なるほど、今日はそこを徹底的に議論しましょう」
だが憧れの対象や目標としている者に自分を似せたい、同じようになりたいという欲求は、ごく自然なものではないか。エンジェルであっても人間に憧れる気持ちがあるなら、そこまでの知能や感情があるなら、同じ外見、同じ中身になりたいと願っても不思議ではない。
「じゃ、奴らがどうして地下にいたのか、それはわかる? 推測でも構わない」
『そうだな、地上、あるいは居住層の一階上のB.A.T.層から逃げ出したものが、紛れ込んで成長したのではないか? そしてその過程で何らかの変化があり、擬態する個体が誕生した……』
ミハイルの推測は的を射ているかもしれないと、フローラはぱあっと顔を明るくした。だがエイジは、さらにミハイルに問う。
「あいつらは、擬態する個体は一体誰が作ったの? 父さんは知らないの?」
『誰が作ったのかは、私にも見当がつかない。私は途中で自分が何者なのかさえ忘れてしまったのだ』
クローンであるミハイルにも見当がつかないことなら、現時点のB.A.T.にそれを解明するだけの材料はないだろう。そして、ミハイルは本当に「こちら側」、つまり「人間側」だと思っていいのか。大好きだった養父に対し、味方だと確信できないことに、エイジは苦しんでいた。
水槽で管理されながら、身体の一部を人間のそれへと変化させている個体がいると聞き、カルマはどうしても彼らを見たいと思った。特に、自分とギーが連携して捕獲したセラフィムの様子は気になる。昼休みに科学棟へとひとりで足を運び、あれは地下鉄の中で、完全な人間の姿になっていたと思い出す。
廊下を歩いていると、正面からギーがこちらに向かってきた。彼に気づいたカルマは、途端に笑顔になる。
「ギーくん! お疲れ~!」
嬉しそうににこにこと笑いながら近づくカルマに対し、ギーは眉間にしわを寄せて難しい顔をしている。スキップの足を止めたカルマは、そんなギーの顔を覗き込んだ。
「ギーくん、どしたの。化学班の研究室に何か用?」
「……カルマ、食堂はどっちだ」
深刻そうな声で訊ねるギーに、カルマはぷっと吹き出しながら応える。カルマに笑われたギーの顔は、さらに深刻そうに変化していった。
「え、また迷ったの? 食堂に行きたいって……や、そもそも棟が違うってば」
「ここは……もしかして科学棟か?」
「そうだよ。次からは誰かと一緒に行った方がいいんじゃない?」
「むぅ……」
軽く言うカルマに、ギーは不本意だという顔を見せた。いくら迷うとしても、カルマ以外の隊員には、恥ずかしくてそんなことを頼めるわけがない。ギーは戦場ではとても頼りになる狙撃手だが、任務が済んで日常に戻った途端、極度の方向音痴になる。そんなギーを見つけて目的の場所へ案内するのは、しばしばカルマの役目だった。
「せっかく科学棟にいるんだから、ギーくんも擬態ちゃんに会っていこうよ」
「そうだな、居住層からここまで運んだ奴らが、現在どんな状態なのか、俺も知りたいと思ってた」
カルマとギーは、科学棟の静かな廊下を並んでゆったり歩いた。第一研究室のブザーを鳴らすと、インターホンに出たのは白衣を着た若い男性科学者、先日の会議でも発表したリンゴだった。
「お、お疲れさまです! 本日は何か、ご要望などでしょうか」
あの会議で発表をしたくらいだから、リンゴは決して新米科学者ではないはずだ。だが、第一線でセラフィムたちと戦う戦闘員には憧れや畏怖の念を持っているのかもしれない。直立して敬礼するリンゴはとても緊張した顔をするが、カルマはいつものように緩く手を振り、軽い調子で応える。
「そっちこそおつかれ~。ねぇ、擬態ちゃんはどこにいるの?」
広い研究室には何十という数の水槽が並べられ、コードや計器が付けられていた。すでに解剖された個体を保管していたと思われる空の水槽は、中身を失って白々とした空間に見える。科学者たちは忙しそうにデータを取り、それをタブレットに記録している。明度を落とした環境下で、そこに収められたセラフィムは、今はほとんどが静かに眠っているようだ。
「見学ですか? 許可証はお持ちでしょうか」
そうだった。化学班が管理するセラフィムを見るには、本部で許可証を発行してもらわなければならないのだ。初めてのことでうっかり忘れていたカルマは、いつもの調子で軽くお願いする。
「いいじゃん、内緒にしとくからさ。もう来ちゃったし」
壁面をぐるりと囲んで設置された水槽の中には、数体の人間になりかかったセラフィムが、思い思いの形で半人半セラとして存在感を放っていた。そして早速カルマの声を真似、「オ、ツカ、レ……」などと声を出す。
「わっ! なんだこいつら! ほんとにしゃべってる!」
「カルマ、迷惑だろう」
ギーに首根っこを掴まれながらも、カルマは擬態個体の水槽に近づいてゆく。ガラスに顔がついてしまうくらい接近して中のセラフィムを見つめると、相手もカルマをじっと見た。
「僕、カルマだよん」
「カル……?」
擬態個体が揺れ、その姿が少し崩れた。中年女性の顔になりかかったそれが、自分とギーが捕獲したものだとわかると、カルマは手を叩いて面白がる。
「あの時のおばさんか! う~ん、いいねぇ。おもしろい!」
「……カルマ」
「わかったって。ありがとう、勉強になった」
周囲の水槽を一通り眺めまわし、カルマは科学者たちに礼をして退室した。ギーがまるで保護者のように丁寧に頭を下げ、カルマの背中を追う。
「許可を取っていたんじゃないのか?」
「だって忘れてたんだもん」
口を尖らせて言うカルマに、ギーは小さくため息をついてから「食堂は……」とつぶやいた。カルマはどうしてこう、いつでもマイペースで行動できるのかと、ギーにとっては理解しがたいと同時に、憧憬の対象でもあった。
「僕は、煮込みハンバーグにするよ」
「……なんの話だ?」
「だから、食堂でしょ。僕もまだだったから一緒に食べようよ」
「そうか、俺は……俺は着いてから決める」
こう言っているが、きっとギーは天ざるにするだろうと思ったカルマは、自分の中で賭けをする。もしも外れたら、ギーの分の食券も買ってあげようと、こっそり想像してくすくす笑った。
結局、ギーの天ざるはカルマのおごりとなり、嬉しそうに食券を買うカルマは、子どものようだった。そのまま一緒にクラウスのラボに向かう。音もなくドアがひらき、入口に立ったカルマとコタロウの目が合った。コタロウはカルマとギーに頭を下げ、にっこりと笑顔を見せる。カルマがブリクサ班所属だと知っているので、コタロウはいつも羨望を込めた目をカルマに向けていた。
「カルマ、できてるぞ」
すると、ちょうど入口のすぐ近くにいたクラウスもカルマに気づき、ぶっきらぼうに声をかける。クラウスの言葉を聞いたカルマは、嬉しそうな顔を見せた。
「クラウス! 早かったね」
ギーに向ける笑顔とは、また違う顔でカルマは笑った。その違いを不思議に感じながら、ギーも当然のようにラボの中へと進んでゆく。
「おぉ……、軽くなってる」
カスタムしてもらったばかりの銃を持ち上げ、カルマは驚きと感動が入り混じった声を出した。クラウスは少し得意そうな顔をして応える。
「スコープと外装を軽量化して、五十グラム落とした。大変だったんだぞ。どこを何グラム落とすかで、全体のバランスに影響するからな。重心は今までより少し後ろに置いた。長時間構えても、以前より身体への負担は軽いはずだ」
「へえぇ、クラウスってさ、僕のこと好きでしょ?」
「……は? 俺は銃の話をしてるんだぞ」
ムッとした顔をしてから、クラウスはやれやれと笑って肩をすくめる。ギーも見慣れたカルマの銃がカスタムされて興味津々だ。カルマは早速、軽やかに銃を持ち上げ、照準器に片目を当てる。
「おぉ、いいね。これなら今までよりもっと外さない」
周囲の棚や台には、いくつかの修理済み専用武器、標準の火炎弾、デビルスウォードなどが置かれている。修理前のものは、所属と個人名が書かれた札が付いた状態で、台車の上に並んでいた。カルマはスコープを覗いて「バーン!」と銃を撃つ真似をしながら、クラウスを見ずに問う。
「ねぇ、最近ブリクサ隊長は来てる?」
「ああ。週に一度は義手のメンテをするからな」
「そっか、よかった」
「よかった」と言ったカルマが何を指しているのかはわからない。その表情からも読み取れなかった。そしてクラウスは、ギーの前にも新しい銃を置いた。
「……これは?」
「ギーの昇格祝いの専用武器だ。持っていけ。ユキムラ班に入ったんだろ、頑張れよ」
「……ありがとうございます」
クラウスが作ってくれた専用武器は、ギーの佇まいにふさわしい、黒と銀色の艶が美しい銃だった。ギーはそれを両手で持ち、感無量という顔でカルマを見る。
「ギーくん、専用武器ってクラウスの愛情の塊だからさ、すごく使いやすくて強くなれるんだよ」
「なに言ってやがる。俺は技師だからな、強くなるかどうかは本人次第だ。魔法の道具じゃねえんだぞ」
両手を腰に置き、クラウスはカルマを見てふっ、と息をつく。何かを思い出すような少し悲しい表情をした後、自分の頬をパン! と叩いて笑った。
「もう行け。地下に出たエンジェルの問題が、終息したって保証はないんだろ?」
そうだ。もうセラフィムは残っていないと、住人を安心させるためにそう発表されてはいるが、それは絶対ではない。なぜ居住層にやつらが現れたのか、どこからどう侵入したのか、先日の会議では何一つとして解明されてはいないのだ。化学班の研究者たちは、捕獲したセラフィムについて、会議が行われるまでの観察記録を発表しただけだ。
警察からの発表では、行方不明者と擬態個体の数が一致するとのことだったが、彼らと擬態のDNAが一致したという情報は、まだない。
我々はそんなあやふやな状態でも、どこかにエンジェルが現れたと通報されれば出動し、戦って処理することが任務だ。もっと情報がほしい。そうでなければこの戦いは終わらないと、カルマは専用武器を大切そうに撫でているギーの横顔を見ながら思った。
「うん、そうなんだよ。まったく困っちゃうよね」
いつもと変わらない、カルマらしい軽い調子でクラウスに答えたが、棚の前で心配そうにこちらを見ているコタロウに気づいて、カルマは少し不安になった。もう誰も欠けてはいけない。殉職者を出すなんて、組織はばかだ……。
「ありがと! 早くこれを使いたいなぁ。そうだ! ギーくん、この後射撃練習場にいかない? その専用武器、早速使ってみようよ」
「そう……だな。クラウス、本当にありがとう」
大きく手を振る陽気なカルマと、まだ専用武器をもらった感動に震えているギーがラボの出口に向かうと、クラウスは面倒くさそうに追い返した。そしてクラウスも思う。地下にエンジェルが出たという非常事態は、まだ終息したわけではない。




