第68話 十年目の綻び
ゲンシュウの報告を黙って聞いていた男は、モニターの向こうで眉間にしわを寄せて何度か唸った。地下居住層にエンジェルが発生したという事実、地下鉄車内にはB.A.T.が「擬態個体」と呼称している、人間に擬態したものが三体、また周辺の商業施設には人の声を真似て喋る個体が出現した。
「エンジェルが現れることは決してない」「絶対に安全」と言われ続けてきた地下居住層はB.A.T.層よりさらに深い場所に設けられている。住宅、学校、商店、公園、病院など、かつての地上と変わらない施設が揃うそこは、選ばれた人間だけが安全に暮らせる場所だった。
『私が説明するよりも、画像をご覧になった方が早いでしょう』
マイクに向けて言うと、ゲンシュウは「居住区B2駅」で停車した地下鉄が発進したあと、マックスとシドニーの前で、人間に擬態した姿からエンジェルへと変化した三体、公園に残されていた蛹、そしてウォーカーらの画像を提示した。さらに行方不明者とエンジェルのDNAが一致したこと、そこに現れたエンジェルたちは、人間を攻撃してこなかったことなどをまとめた資料も同時に示した。モニターをじっと見つめ、次々と画像を切り替えていたモナドは、眉間のしわをさらに深くしてしばし沈黙し、重そうに口を開く。
『……こんなものは、作っていない』
『は……。と、おっしゃいますと?』
『エンジェルの特性は君も知っての通り、まず彼らの寿命は長くて十日。そしてあれは殺傷能力のみに特化して作られた殺戮兵器だ。人間に擬態だと? しかもこのウォーカーなどと呼ばれるふざけた個体は何だ?』
ゲンシュウの顔を覗き込むように乗り出したモナドは、タブレットを何度も繰って擬態した状態のセラフィム、そしてウォーカーを見比べた。その顔には苛立ちが表れており、ゲンシュウは混乱する。
『しかも勝手に呼び名までつけおって。彼らはペットではなく、人間を殺すための道具なのだ』
『……では、居住層に現れたエンジェルは、計画にはない、と?』
『そうだ』
苦い顔で背もたれに寄りかかるモナドに、ゲンシュウも沈黙した。彼に「そうだ」と断言されたことで、ボスの意向でないことが明らかになったのだ。
『では、エンジェルが何らかのきっかけで独自に変化、または進化したという可能性はありますか?』
ゲンシュウの問いに、モナドは椅子から身体を起こし、ううむと唸りながらマイクに口を近づける。難解な問題に当たったように苦悩するモナドを見るのは、ゲンシュウも初めてのことだ。
『「ない」と言い切るほど、私は傲慢ではない。エンジェルは殺戮兵器であるが、基本的な身体組織は昆虫のそれとほぼ同じだ。だが、たったの十年という歳月でここまで変化するとも考えにくい。途中で何らかの……いや、人為的な何かが加わったという仮説も成立するだろう』
『自然発生的な変化ではないということでしょうか』
『わからない。現時点ではわからないとしか言いようがない。私よりもむしろ、B.A.T.側の方が何か掴んでいるのではないかね?』
モナドの口調に焦りが見え始め、明らかに不快感を持っていることがわかった。エンジェルを作った張本人が把握していない変化が起きている。誰が、何のためにエンジェルを改竄した? 特にこのウォーカーと呼ばれるものは、なぜ二足歩行などするようになったのだ?
『何なんだこれは。ウォーカーだと? ますますわけがわからない』
『それは……、エンジェルに異常に固執している隊員がおり、彼女がそう名付けました。この個体が地下鉄駅のホームで……歩いたからです。そしてそれはその場から逃走し、現在も捜索中です』
『何だと? こいつが野放しになっているのか? また居住層に現れたらどうするつもりだ。絶対に捕まえろ。この個体を捕えれば、他のことを解明するヒントになるかもしれない。もちろん計画は予定通り進める』
『承知いたしました。では、新たな情報が入り次第、ご報告いたします』
ゲンシュウがモニターをオフにする。モナドはゲンシュウが消えた画面をしばらく見つめ、彼の残像と、そこに映る自身の姿とを重ねた。手元のタブレットには、たった今受信したばかりの資料と画像がいくつもある。それらをもう一度ひと通り眺めたモナドは、ウォーカーの画像が表示されたところで指を止めた。
「なぜだ……。エンジェルは殺戮兵器のはずだ。私たちがそのように作った。それなのにこの個体は人間を殺さずに逃げた……? おまけに隊員によって名前まで付けられている。自分がウォーカーと呼ばれていることを理解しているのか? なぜ殺さなかった? なぜ逃げた? 何を目的として生きている?」
画像を見ながら、モナドは苦痛に呻くようにつぶやいた。頭の中にいくつもの疑問が浮かび、それを自身の目で確認できないもどかしさに、さらに苦悩する。これは、この個体は突然変異の異常個体だ。兵器としてはまったく使い物にならないばかりか、人間側かこちら側か、どちらに脅威をもたらすかもわからない。
ゲンシュウとの通信の中で、「新種」と仮定されたエンジェルの画像を見ながら、モナドは十年前に出来た彼らの特徴を思い返す。そして、過去十年間で各地に現れたエンジェルの記録を検索し、「地下に出現した記録なし」「蛹を作った記録なし」「人間への擬態なし」「十日を超えて生息した記録なし」と、一つずつ照合していった。期待した結果はまったくヒットしなかった。いま、B.A.T.ジャパンが直面している「新種」のエンジェルは、今後、新たな脅威として拡散されてゆくのか、それはすでにモナドの手を離れたことを意味するのか……。
右手の親指と人差し指で疲れた瞼を軽く揉み、モナドはモニターを閉じて引き出しを開けた。そこには一枚の写真が横たわっている。写真の中で二人の男が笑っていた。モナドは懐かしさに目を細め、溜め息をついて書架から一冊の本を取り出す。それは美しい森に棲む、昆虫たちの写真集だった。歩きながらページを捲り、ソファへと移動する。壁一面のモニターから離れ、写真集を胸に抱いて仰向けになると、あの日の聲が聴こえてくるようだった。
モニターの中のモナドに頭を下げ、コンピュータの電源を切ったゲンシュウは深い溜め息をついた。モナドにとって、今回の報告は特に驚愕する内容であったようだ。実際にゲンシュウも、地下鉄や市街地にセラフィムが現れたことには、言葉を失うほど驚いた。だが隊員たちとの会議や、研究班による報告会議等を経てきた今、それらの事実をモナドに説明する立場としてみると、今回起きた一連のセラフィムの騒動が、自分にとって想定の範囲内であるような気になっている。つまり、何度も隊員から聞き取りをし、資料を読み、画像を見ているうちに、エンジェルがどう変化してゆこうと、それに対していちいち動揺していられないと、そう感じたのかもしれない。もっと言えばこれは「慣れ」かもしれないと、ゲンシュウはB.A.T.本部棟の廊下を歩きながら自嘲気味に微笑んだ。
ゼロの執務室がある階でエレベーターを降り、オフホワイトの床を踏みしめて廊下を進んだ。やがて目的の部屋の前に立ったゲンシュウは、改めて姿勢を正し、ドアをノックする。
「入れ」
「失礼いたします」
自分が頭を下げていることを、相手が確実に視認したであろうと思われる数秒間、ドアのところで腰を折っていたゲンシュウは、顔を上げて直立した。机の向こうのゼロは、直前まで誰かと通信していたらしい。パソコンのモニターがその顔に明るく反射している。
「ゼロ統括総監、先日はゼアスへのご訪問、お疲れさまでした。いつも資金提供に関してお骨折りいただき、感謝しております」
「ああ。そのことだが、近々アーロン氏が再びB.A.T.を訪れる事になった。装備については隊員と直接相談したいらしい」
「承知いたしました。各隊長に伝えておきます」
ゲンシュウはたった今までモナドと通信していた件を、ゼロに報告するつもりで来ていた。だがゼロは、ふと椅子から立ち上がり、窓の外を見遣った。地上では陽射しが照り付ける夏になっているが、ここは一年中春のように穏やかな気候が保たれている。
「……で、例の件は?」
「はい。たった今、モナド様への報告を終えたところです」
「彼はなんと言っていた?」
「大変驚いていました。『こんなものは作っていない』そうです。そもそもエンジェルは、殺傷能力のみに特化したものであり、十年でこのような変化を遂げるとは考えにくいと。そして例の擬態するエンジェルは、おそらく自然発生ではないだろうとのことです。突然変異か、あるいは人為的な変化の可能性も捨てきれないとお考えのようでした」
「……そうか」
ゲンシュウの言葉に、ゼロは静かに沈黙した。低く流れるクラシック音楽に身をゆだねるよう、ほんの短い時間目を閉じ、上体をわずかに揺らす。
「統括総監も、モナド様と同様のお考えですか」
ゲンシュウの問いに、ゼロは答えない。彼はもう一度目を閉じ、浄化された室内の空気を大きく吸ってから口を開いた。
「……この件は引き続き君に任せる。隊員の士気が下がっては困るので、適度に鼓舞してやってくれ」
ゼロはなぜ自身の考えを述べないのか、そしてその場合の「適度」とは、どの程度を指すのかと、ゼロに返事をしながらゲンシュウは思っていた。地下に現れた擬態個体のことは、化学班が日々解明しようと実験を続けている。近々地上にセラフィムの群れが現われでもすれば、討伐部隊は躍起になって出動するだろう。だがもしもそこで、再び擬態その他、未知のエンジェルが出現した場合は、また対処が追いつかず、現場は混乱するはずだ。モナドから「こんなものは作っていない」とはっきり言われた以上、新種の解明を進めるのは急務だろう。ゼロでさえ擬態するセラフィムについては何も知らないのだから。
誰もが、何も知らない。だがそのような存在である擬態セラフィムに対し、ああも純粋に興味と愛情を持てるフローラは、計画を遂行するための、何らかの装置となり得るかもしれない。沈黙するゼロの背中を見ながら、なぜかゲンシュウはフローラの顔を思い浮かべていた。
その時、閉じたドアがノックされた。ゼロはそちらを振り返り、腕時計とゲンシュウの顔を交互に見る。
「失礼します。お話中でしたか」
「いや、もう終わった。用は何だ」
「統括総監、開発予算についてご意見を賜りたく参りました」
敬礼した職員は、ゲンシュウを見ると半歩下がってゼロの反応を待った。ゼロはふっ、と息を吐いて、中に入れと彼に目で示す。
「では、私はこれで失礼します」
「ああ。引き続きよろしく頼む。アーロン氏の来訪が決まったら知らせる」
「はっ」
ゲンシュウは低く応え、敬礼をしてからゼロの部屋を後にする。ドアのところで待機している経理職員とすれ違う時、彼はゲンシュウにも素早く敬礼をした。
地下層に現れたセラフィムについては、すでにミハイルにも訊ねている。しかし彼も「わからない」と繰り返すのみで、それは嘘ではなさそうだった。モナドという、エンジェルの「生みの親」ともいえる彼でさえ、関知しないところで起きた異変だとしたら、ミハイルにわからないのは当然だろう。彼自身がどれほど求めようとも、もう何かを見聞きすることはできないのだから。
ゲンシュウは、自分の身に危険が及ばない地下で、エンジェルと人間の戦い合いを見届けたいと思っていた。あくまで自身は出動せず、観客として高みの見物をしていたかった。だが地下層の安全神話が崩壊した今、自分は一体どこで、どのようにそれを見届けることができるだろうと頭を抱える。エンジェルを「知りたい」という想いが自分の中にもあることを認め、ゲンシュウは部屋に戻ったあと、もう一度ウォーカーの画像をじっくり見ようと思っていた。
経理部の職員から見せられた資料は、現在地上で用いられている、ドローンのアップデートに関するものだった。セラフィムに変化が起きたことを受け、B.A.T.ではどう対策してゆくのかを知りたいという。具体的にどのような装備や機械が必要なのか、それを各隊長の意見を募って会議を開きたいとのことだった。それならゼロに求めるのは意見ではなく、担当部署でまとめた予算の承認だけだ。彼にはそう伝え、さっさと退室させた。
ゲンシュウの報告により、地下層に現れたエンジェルは、モナドが作ったものではないことが確実となった。彼なら、あるいはちょっとした悪戯心で、変わったエンジェルを試作するかもしれないと思ったのだが、完全に否定されたとなると、いよいよ訳がわからない。何よりも、「攻撃してこない」という特徴は、いかにもモナドらしいと感じたのだ。今までと違うエンジェルを出してくるなら、いきなり隊員が全滅するような強力なものではなく、少しずつ様子見しながら変化させてゆく。モナドにはそんなところがあった。いまだ、どちらが正しいのかわからないのだ。自分も、そしてモナドも。どちらが正しく、どちらが残るべきなのか判断できずにいる。この十年の迷いや恐れが鮮やかに実を結ぶ日はいつくるのだと、ゼロは無表情で溜め息をついた。
そしてゼロは机の引き出しを開けた。そこには今とは別の自分が収まった写真が仕舞われている。それを手に取り、ゼロはじっと見つめた。写真の中で、自分はやさし気に笑っている。だが今はまだ、これと同じ笑顔になることはないと、ゼロはそれを引き出しに戻した。




